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なるにわ ぶろぐ

「なにものか」でなくともよい場所、なるにわのブログです。
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カテゴリー「書評」の記事一覧

おーとーせよ/『こちらあみ子』読書会

4月9日、今村夏子著「こちらあみ子」の読書会をした。参加人数はわたしを含め3名。こじんまりとした集まりだったが、3人がそれぞれに、この小説に畏敬の念を、わかりやすくいえばただならさを感じていたので、とても充実した読書会となった。

まずは、簡単なあらすじを。

主人公のあみ子は、いつも人とすれちがってしまう。無気力な母親とも、幼いころは仲が良かった不良の兄とも、大好きなのり君とも。生まれてこられなかった「弟のおはか」をつくったり、幽霊の声が聞こえたり、トランシーバーで誰にも届かない交信をこころみたりするとき、あみ子はいつだって一生懸命だ。その懸命さゆえに、周囲の人々と決定的にズレ続けてしまうあみ子だが、当のあみ子だけは、その亀裂に気づくことができない。やがてあみ子には別離の日が訪れるが……(2011年度、太宰治賞、三島由紀夫賞受賞作品)。

この小説を読んでみて、わたしがまず思ったのは、作者の視点はどこにあるんだろう、ということだった。というのも、作者=あみ子であったら、この物語は書かれなかったと思ったからだ。すくなくとも、このような語られ方にはならなかったはずだ。登場人物の誰の視点からも、感情からも、あえて距離をとっている気がする。主人公のあみ子からさえも。
それゆえに、あみ子の孤独はいっそう引き立つ。
本当の意味で、人は圧倒的にひとりなのだ。
それでも他人だらけのこの世界とどうにかつながって、生きていかなければならない。
この小説の一筋縄ではいかないところは、人はひとりだけれど、ひとりだけで生きていくことはかなわない、ということを切実に描いているのに(だからこそ?)、安易なハッピーエンドは提示されない点だ。
自分ではない他者とすれちがってしまう、その瞬間のピシリと胸が軋むような音を、あみ子を通じてわたしたちは何度も聞くことになる。
せつなく、痛々しい音だ。
それでもあみ子は世界に向かって、無邪気に残酷に、何度でも呼びかけ続ける。
「こちらあみ子。おーとーせよ」と。

「でも、誰もあみ子に応えることはできないんですよね」
あみ子の存在が、呼びかけ続けるその声が、親しい人に対してほど暴力性をもってしまうことに注目したのは、Mさんだった。
「それも、無理なからぬことかなって思う。自分の周囲にあみ子のような存在がいたら、やっぱりひいてしまうと思うから」
その一方で、あみ子が最も直接的な暴力を介して、大好きな「のり君」と渡りあうシーンが印象的だとMさんは言う。あみ子は積年の想いを込めて、のり君に「好きじゃ」というが、徹頭徹尾、一方通行で、ある意味では暴力的だ。対するのり君は「殺す」と返す。あとはもう、「好きじゃ」と「殺す」の応酬だ。その果てにあみ子はのり君に殴られてしまう。

「あみ子が周囲とズレてしまうのは、あみ子が言葉以前の世界を生きている存在だからではないか」と指摘したのはYさん。いわく、「あみ子はプリミチブな世界に生きている」。
たとえば、あみ子がわたしたちとまったくちがった道理によって生きているのあれば、そのズレに痛みも感じない。痛みを感じるのは、みんなあみ子のように言葉以前の世界に浸って生きていた時期があるからではないか。人は言葉以前の世界から、だんだん言葉の世界に入っていく。その言葉を通じて、社会とつながっていく。だから、いくつになってもプリミチブさを強烈に放ち続けるあみ子の前で、周囲は苛立ちをつのらせてしまう。でも、それはあみ子がわからない存在だからではなくて、言葉以前の自分、プリミチブな自分が刺激されてしまうからかもしれない、と。
「自分が小さいころの、世界とのつながり、他者が見ている世界とズレてしまう瞬間のことを思い出した」とYさん。

そのように考えていくと、つながり損ない続けるあみ子が、かろうじてつながれている人々の存在も、また象徴的だ。家族と離れたあみ子を引き取ったおばあちゃん(高齢者)、そんなあみ子の欠けた前歯を見せてもらいにやってくるさきちゃん(子ども)、そして、生まれてこなかった赤ちゃん(死者)。みんな「世間一般」の大人が敷いたレールから、おそらくはプリミチブの方向へはみ出している存在だ。

あみ子の強烈な存在感についつい引きずられがちなわたしに、「自分のすぐそばにあみ子のような存在がいたら?」という問いで考えさせてくれたMさん、あみ子の強烈さを「プリミチブ」という言葉でひも解いていったYさん。それぞれに、あたらしい視点と発見のなかで物語と出会いなおすことができるのは、読書会の醍醐味だと思う。一粒で二度おいしいどころか、噛めば噛むほど味わい深くなっていくなんて、スルメみたいだ。

人はみんな、いつかあみ子だった自分を忘れて、というより覚えておくことすらできず、どんどん知識や知恵、言葉といったものが重視される世界へとスライドしていく。そんななかで、感覚世界に止まり続ける存在=あみ子を「日常」へとぽん、と投げ込み、生じる波紋を、美化するでも貶めるでもなく、淡々と描いてみせた作者は、やっぱりただものじゃないと思う。というより、何者なんだろう?
この人が次にどのようなものを書くのか、興味が尽きない。
ちょうど、「たべるのがおそい」という素敵なタイトルのムック本に、5年ぶりの新作が載ったところだという。こちらもぜひ、読んでみたいと思う。(野田彩花)

書評:『キリンの子』鳥居歌集

 鳥居さんの歌集『キリンの子』を読みました。何首か短歌を引きながら、感想を書きたいと思います。(森下裕隆)

 *****

 一読して静謐(せいひつ。静かで落ち着いていること)な歌集だと感じました。もちろん、壮絶な体験について詠んだ歌も数多く収録されていますが、それも痛みや苦しみを前面に押し出すようなものではなく、感情は適度に抑制されています。

「精神科だってさ」過ぎる少年は大人の声になりかけていて
理由なく殴られている理由なくトイレの床は硬く冷たい

 一首目。精神科通院への偏見に対する怒りがないはずはありません。ですが下句(五七五七七のうち、七七の部分)では、心の病とは無縁に成長しているであろう少年へのある種のまばゆさも感じさせて、淡い印象の歌になっています。
 二首目。殴られることとトイレの床の硬さ冷たさ。本来同列に語られることのないふたつの「理由のなさ」を並べることで、主体(しゅたい。短歌の中の主人公)の逃げ場のなさ、やり切れなさを表しています。

慰めに「勉強など」と人は言う その勉強がしたかったのです


 おそらく初期の作品。率直な意志の表現が胸をうちます。高らかにうたいあげるのではなく、うつむき加減で口の中だけで絶叫しているような、力のある歌です。
 また、この歌集には著者の幼少期を詠んだ歌も多く収録されています。いなくなってしまった母、祖父母、なくなってしまった家……。これらの歌は哀しみとも憧憬ともつかないような感情に彩られています。

祖母のこと語らぬ母が一人ずつ雛人形を飾る昼すぎ
もう誰も知らない母の少女期をみどりの蚊帳で包めり昭和
まだみんな家族のままで砂浜に座って見つめる花火大会


 とくに、「母」に対する強い想いを感じる歌を二首引いてみます。


目を伏せて空へのびゆくキリンの子 月の光はかあさんのいろ
枯れた葉を踏まずに歩く ありし日は病に伏せる母を疎みし


 愛おしくても疎ましくても母を想うこころ。月の光や、枯れ葉を踏まずに歩くという行為は、母のたましいへの慰めのようにも見えます。


母は今 雪のひとひら地に落ちて人に踏まれるまでを見ており

 *****

 また、鳥居さんは連作として短歌を発表することに意識的な歌人だと感じました。連作とは、内容的な繋がりを持った複数の短歌のまとまりのことです。
 『キリンの子』にもたくさんの連作が収められていますが、その中でもとくに印象的だったのが「野菜の呼吸」という15首の連作です。
 この連作には、自身の壮絶な体験や苦悩を詠んだ歌はほとんどなく、八百屋での労働の風景が淡々と描写されています。


早朝の八百屋は群青色をして植物だけが呼吸している
南瓜を半分に切り並べれば棚一面に金が輝く

 二首目は、この歌集の中でも一二を争うような秀歌だと思います。八百屋で働いていれば見慣れた光景であるはずなのに、一瞬の奇跡のように金色に輝く南瓜の断面。心理的な描写を用いずにその一瞬の感動を巧みに表現しています。

大根は切断されて売られおり上78円、下68円

 奇妙にも思える数字のディティール(細部)への注視が印象的です。


ふよふよのみかんは見切り品にする手で触ってもふよふよわからず
陳列台の青い光に照らされるきのこは山に帰りたがって

 無心に働いているようでも、主体の心が、商品である野菜や果物に乗り移っているかのようです。一首目の、ふよふよ、は柔らかなオノマトペ(擬態語)ですが、どこか哀しみも感じさせるような響きです。


みわけかたおしえてほしい 詐欺にあい知的障害持つ人は訊く

 八百屋の客なのか、いっしょに働いている人なのか、知的障害を持つ人が登場します。「みわけかた」とは、いい人とわるい人の見分け方、ということでしょう。
 主体もまた、「みわけかた」がわからない人なのかもしれません。手で触ってもみかんのふよふよがわからないように。


八百屋なら生きていていい場所がある緑豆もやし積み上げながら

 *****

 『キリンの子』の後半には、鳥居さんの近作が収められています。その中から、とくに良いと思った歌を三首引きます。


屋上へつづく扉をあけるとき校舎へながれこむ空のあお

 目も眩むような明るい青空を思い浮かべます。扉をあけることで、世界が一気に拡がっていくような、ダイナミックなイメージの歌です。


ほんとうの名前を持つゆえこの猫はどんな名で呼ばれても振り向く

 「どんな名で呼ばれても振り向く」のは、「猫」が生きるための強かな戦略なのでしょう。「ほんとうの名前を持つゆえ」は逆説的な物言いにも思えますが、ほんとうの名前(=ほんとうの心?)を誰にも告げずに、ただ生き延びるために生きてきた野良猫の悲哀も感じさせます。

秋風のうすく溜まれる木の皿に亡母(はは)の分まで梨を並べつ

 鳥居さんは絵画を描かれていた時期もあったそうですが、この歌には静物画のような趣があります。木の皿の柔らかな丸いフォルムと、切って並べられた梨の瑞々しさが視覚的にイメージできます。「秋風のうすく溜まれる」という修辞(レトリック)も巧みです。

 *****

 セーラー服や過酷な生い立ちばかりが注目される鳥居さんですが、歌人としては、かなり落ち着いた、クラシックな歌を詠まれていると思います。これまで短歌にあまりなじみのなかったひとも、『キリンの子』を書店で見かけられたら手にとってめくってみてください。きっと奥深い短歌の世界が拡がっているはずです。

書評『不登校・ひきこもりが終わるとき』

不登校やひきこもりに関わる人は、大別して二つに分かれるように思う。

ひとつは、学校や社会に適応することが「健全」であるとして、不登校やひきこもりを「問題」とし、いかに「健全」な状態に戻すかを「支援」として捉えている場合。

もうひとつは、学校や社会の状況のほうを問題とし、むしろ不適応を起こすほうが「健全」であるとみて、本人を変えるのではなく、学校や社会のあり方を問い直すことが「支援」になると捉えている場合。

実際には、団体や人によって、ニュアンスはいろいろだが、根っこの部分では、どちらかのベクトルを持っていると言って、差しつかえないと思う。私なんかは後者に立っていると言えるが、その場合でも、当事者を差し置いて理想論を語っていては、本人にとっては迷惑なだけだろう。当事者は、現実の矛盾のなかを生きてるわけで、学校や社会に適応したいという気持ちもあれば、こんな学校や社会はおかしいという気持ちもあって、そうスッキリとはいかない。

本書の著者、丸山康彦さんは、自身が高校のときに不登校になり、社会人になった後も、ひきこもっていた経験がある。現在は、神奈川県でヒューマンスタジオという相談機関を立ち上げ、不登校やひきここもりについて相談を受ける仕事をしている。

本書は、丸山さんが配信し続けてきたメールマガジンがもとになっている。自身の経験をベースに、さまざまな相談を受けてくるなかで練られてきた深い思索と、具体的な手立てが、有機的に結びついて綴られている。一貫しているのは、本人の側に立って、内側から不登校やひきこもりを捉えていることだ。

丸山さんは、「不登校やひきこもりに必要なのは治療でも矯正でもなく配慮である」と言う。それは病気やケガとちがって、「新しい自分あるいは生き方を生み出すこと」で、そこには苦しみや葛藤はあるが、あくまで「本人の生きざま」で「自分の足で踏破することを応援すべき」である、と。

とくに、暴力や依存症など問題となる言動が続くと、周囲は何とか矯正しようと躍起になりがちだ。しかし、丸山さんは、そういう言動をただちにやめさせる術はどこにもない、と断言する。できるのは、本人の根っこにある「真剣な叫び・問いかけに“耳を澄ませること”」だ。本人を誘導するのではなく、斜め後ろに立って「後方支援」で支え続けること。本人の「自律力」を信じること。

私は「支援」という言葉を安易に使いたくないのだが、不登校やひきこもりについて「支援」と言うならば、丸山さんが本書に書かれているようなスタンス以外にはないだろうと思う。

本書は、当事者でもあり支援者でもある丸山さんだからこそ書けた本だ。ただ、欲を言えば、もう少し社会のあり方を見通す視点がほしかったようには思う。タイトルであり結論である「不登校・ひきこもりが終わるとき」で、丸山さんは「どんなに苦しんでも大丈夫、必ず終わる」「不登校とひきこもりの“終わらせ方”はなく、終わらせることができるのは当の本人以外にいない」と言う。その通りだと思う反面、終わらない道筋というのもあるだろうと思う。ただ、それも当事者を差し置いて、周囲が言うべきことではないだろう。

不登校やひきこもりにかぎらず、「支援」に携わる人には、ぜひ読んでほしい1冊だ。
(山下耕平)

 『不登校・ひきこもりが終わるとき』
丸山康彦(ライフサポート社/2014年4月刊)


書評『愛とユーモアの社会運動論』

北大路書房から『愛とユーモアの社会運動論』(渡邊太)という本を贈っていただいた。読んでみてびっくり、自分の問題意識と重なる部分が多いというか、ほとんど全面的に同意共感し、ほれぼれとしてしまうほど、ググっとくる本だった。
 
著者は、資本主義の仕組みから説きおこし、なんで、いまの社会に生きていると、こんなにも疲れてしまい、息苦しいのか、ていねいに解き明かしてくれる。それはマルクスが吸血鬼にたとえたように、資本が生きた労働を吸い尽くして増殖していくからで、末期資本主義の現在は、人は労働だけではなくて、消費から私生活の領域まで、すべてを資本に吸い尽くされてしまっている。末期資本主義のなかで、私たちは無際限に走り続けるよう仕向けられている。しかも、がんばればがんばるほど、不安定化し、窮乏化してしまう。
 
絶望的な状況のなか、「希望は戦争」とか言ってしまうのではなくて、希望を見出すことはできるのか。著者は、深く内面化されてしまっている「禁欲的頑張る主義」や、“現実なんてこんなものさ”と決めつけている硬直した精神を笑いとばし、ユーモアをもってたたかい続けることを提唱する。イタリアのアウトノミア運動や韓国のスユノモ、国内のだめ連や素人の乱、著者が関わるカフェコモンズの活動など、さまざまな具体例をひきながら、可能性を探っている。個々バラバラ、疑心暗鬼に競争を強いられる強制労働社会にあって、人々が自律的につながってコミュニケーションできる有象無象のスペースをつくっていくこと。いま、必要なのは、そういうさまざまな実験なのだ。著者は言う。
 
たまたま実現しているにすぎない現実を唯一不変の現実と信じ、別様の生を想像できなくなってしまうシリアスさの呪縛から逃れるためには、遊びが必要である。遊びのなかで、わたしたちは、世俗的な功利主義的価値や権威主義的序列から意味を奪い取り、自律的な生を取り戻すことができるかもしれないのである。(中略)わたしたちが社会をつくるための方法論は、遊びと実験である。
 
 
「禁欲的頑張る主義」は、学校を通じて内面化されるものでもあるし、不登校やひきこもりは、別様の生のあり方への通路ともなりうるものだと私は感じてきた。それはまっすぐな道ではなくて、複線的というか、行きつ戻りつというか、矛盾だらけの迷走路だろう。資本主義の外には出られそうにないし、むしろ潜りながらつながっていく、みたいな。私たちがコムニタス・フォロでやっていることも、いわば“遊び”だ。
 
冒頭に書いたように、私はここに書かれたことに、ほぼ全面的に同意共感するのだが、あえて言えば、ニートという概念へのこだわりについては、どうかなと思うところもあった。著者はニートという言葉を逆手にとって、“ニートピア”“ニート鍋”などの企画を催している。それは、労働の拒否というアウトノミア運動の残響がそこに感じられるからだというが、私は、不登校にしても、ひきこもりにしても、ニートにしても、それ自体をアイデンティティにしてしまわないほうがいいような気もしている。学校に行かないとか、ひきこもっているとか、働かないというのは、いわば状態像で流動的なものだし、あんまりこだわると、かえって硬直してしまうような気もするのだ。
 
それにしても、すごく身近にいながら、著者の渡邊太さんにお会いしたことがない(たぶん)。渡邊さん、おしゃべりしたいので、私と遊んでください!


フリーターズフリー

すごい「雑誌」が出た。雑誌なのに発刊までに5年ほどかかっている。ページ数は300ページを超えている。発行元は、この雑誌のために結成された有限責任事業組合で、発行自体が挑戦的な社会活動になっている。

ちんたらと読んでいたら、紹介するのがずいぶん遅くなってしまったが、発刊されたのは1カ月ほど前のことだ。何せボリュームがすごい。不安定就労の現場の声、首都圏青年ユニオンやビッグイシューなどの実践、ジェンダーの視点など、この1冊を読めば、いまの若者のおかれている状況は、否応なく把握できる。
とくに、生田武志(野宿者ネットワーク代表)の論文には、うなってしまった。家族・企業・国家のあり方を明晰に分析し、そこから若者問題を浮かび上がらせている。乱暴に一言で言えば、人が、お国のため・会社のため・家族のために生きる時代は終わっているのだ。そこで問題になるのは、自分と「公」(=社会)との関係、「公」とは何かという問題だ。私は、この論文を読んで、これまでずっと感じてきたこと、問題意識が、すごく総合的に整理されたような気がする。さまざまなことが多面的に問題提起されているので、ここから、すごくいろんなことが考えられると思う。

我ながらヘタクソなまとめで、書評にもなっていないけど、とくに若者には、ぜひ読んでみていただきたい雑誌だ。2号の発行が待たれるが、一体いつになるのだろう?

→フリーターズフリーのサイトへ


『生きさせろ! 難民化する若者たち』

雨宮処凛が宣戦布告した。若者をいいように使い捨てにすることで莫大な利益をあげる大企業中心の社会に対して。若者を貧困状態に追い込みながら、若者を責め立てる社会に対して。かくも人が生きづらい構造をつくりだしている社会に対して。
『生きさせろ! 難民化する若者たち』は、怒りの書だ。若者の極度に不安定なフリーター生活や生きづらさが、じつは構造的に(意図的に)生み出されている問題であることを告発し、若者たちが反撃を開始することを宣言している。
著者は、フリーターが文字通りの貧困にさらされていること、正社員が過労自殺に追い込まれるほど忙殺(これも文字通り!)されていること、福祉行政が機能していないことなどを、丹念な取材をもとに描き出している。そこに暴き出されているのは、現在の新自由主義路線のなかで、若者がズタズタにされている姿だ。それは実に寒々とした、砂を噛むような光景だ。
また、著者は、フリーター労組や高円寺ニート組合の活動などを取り上げ、若者が自分を責めたり、現状をあきらめるのではなく、社会に向けて怒りを向けるべきであることを、満身の怒りを込めて語っている。

私自身のことを言えば、フリーター生活も「正社員」生活もしたことがない。大学を中退し、フリースクールや不登校新聞社といったNPO(当初はNPOという言葉はなかった)でフルタイムで働いてきた。収入はフリーター程度の低収入で、ときにはメチャクチャ多忙だったこともあるし、しんどいと感じることも多々あった。しかし、自分の考えをまともにぶつけて仕事ができ、意見をぶつけ合いながら信頼関係を築き、社会状況を切りひらいていく仕事は、お金には換えがたいものがある。お金にならないことにも、ずいぶん労力を注いできた。十年以上も、そういうふうに働いてこられたのは、ラッキーなことなのだろう。私は、まったくといっていいほど、疲弊はしていない。不安定ではあるし、先々のことはわからないが、なぜか悲観的にはならない。きっとそれは、家族以外に、お金には換えがたい関係を築いてこられたからだ。

若者が求めているものは、金銭面での安定ももちろんあるだろうが、それ以上に、お金には換えがたい関係であったり、仕事の意味だったりすると思う。この殺人的に過酷な状況を生みだしている源泉には、何のための仕事なのか、何を競争しているのか、誰もわからないままに、おたがいをズタズタに削り合っていく悪循環のスパイラルがあるように思う。(このあたりは、また別に書いてみたい。)

ともあれ、私も微力ながら、雨宮の宣戦布告に共闘の意を表明する。


『引きこもり狩り』

『引きこもり狩り』(芹沢俊介・編)という本が出た。『引きこもり狩り』とは、すさまじいタイトルだが、それが事実であるだけに、空恐ろしい。
長田塾やアイ・メンタルスクールなど、ひきこもる若者たちをムリに引き出そうとする業者が、その違法な手法ゆえに事件を引き起こした。両者とも、ひきこもる若者たちを保護者の「同意」のもと拉致・監禁し、後者では昨年4月に死亡事件まで引き起こした。そして、両者とも裁判に訴えられ、昨年12月に判決が下された。同書は、この二つの事件の経過をていねいに分析し、引き出すことの問題を徹底的に剔りだしている。

アイ・メンタルスクール事件はマスコミでも大きく取り上げられたが、長田塾裁判については、あれほど大きくマスコミで持ち上げられている団体の違法性が問われたにもかかわらず、ごくわずかしか取り上げられなかった。アイ・メンタルスクール事件への批判も、「支援」する側の「善意」が強調され、引き出すことを必要悪とする論調が多かった。
それに対し、編著者の芹沢俊介は、「善意の道は地獄へ通ずる」と言い切り、引き出す思想を否定する。そして、支援とは、支援する側の善意を押しつけるものであってはならず、支援される側を主体に、その必要性を軸になされなければならない、と語る。
芹沢は、長田塾やアイメンタルスクール事件を、対岸の火事として批判することを許さない。「善意の道は地獄へ通ずる」。これは、私たちにも鋭く突きつけられる問いだ。こういう問いに鈍感な人は、「いいことをしている」と思いこんでいるだけに、すべからく危ないと、問いかけている。
  *   *   *
コムニタス・フォロでは、同書の共著者のうち、芹沢俊介氏と高岡健氏を招いて、2月12日に大阪市内で対談集会を開く。『引きこもり狩り』も会場で販売するので、ぜひ、ご参加いただきたい。


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「なにものか」でなくともよい場所、なるにわ(NPO法人フォロが開いてます)。毎週土曜日の午後にサロンを開いているほか、づら研(生きづらさからの当事者研究会/月に1回)、終末ティータイム、冊子『もじにわ』刊行、なるにわラジオ配信などの活動をしています。ブログは、おもにコーディネーターの山下耕平が書いています。

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