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なるにわ ぶろぐ

「なにものか」でなくともよい場所、なるにわのブログです。
なるにわの活動、づら研などについて
おもに、コーディネーターの山下耕平が書いてます。

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カテゴリー「居場所について」の記事一覧

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サロンのルール

コムニタス・フォロでは、サロンのルールというものをミーティングで議論し、定めている(下記)。はじめからあったルールではなくて、途中から必要を感じて決めて、これまでに一度、改定をしている。
…………………………………………………………………………………………
●サロンのルール

・サロンは、参加者が安心して話せる場であることを大事にしています。

・サロンへの参加は自由です。たとえば、途中参加・退出もできます。

・サロンで出された話については、基本的に、その場での話にとどめましょう。とくにプライバシーにかかわることを外部に漏らしたり、他の目的に利用するようなことはしないでください。

・他者の発言に対しては、批判をすることはあっても、否定はしないよう配慮しましょう。

・質問などされた場合でも、自分が答えたくないことは答えなくてもかまいません。

・不快な発言や傷つく発言があったときは、その場で、あるいは事後に異議を唱えることができます。感覚的なことは言葉にしにくく、また冗談との境目がわかりにくいことも多くありますが、“泣き寝入り”しないようにしましょう。サロンで話し合うことがふさわしくない場合は、コーディネーターがあいだに入るなどして、当事者間で話し合うこともできます。

・サロンは公共的な場です。節度とおたがいへの配慮を大事にしましょう。

・このルールは、適宜、見直すことができます。見直しは、サロンでの話し合いによって決めることとします。
…………………………………………………………………………………………

ルールを定めたからといって、それで万事解決というわけにはいかない。でも、ときに明文化し、あるいは場のあり方を構造化することも必要なことだと思う。これまで、一番必要なのは「何もしなくていい時間」だという声から、サロンをなるべく予定で埋めてしまわないよう工夫したりもしているが、すべてが「何もしなくていい時間」だったら、ノリだけが支配する場になってしまって、内輪で固まってしまうことになるだろう。

とはいえ、そんなに自慢できるほどのことはなくて、むしろ「問題だらけ」なのだが……。(つづく)


「居場所」について-31

たとえば家族でも、きょうだいで親からの承認を奪い合うことはあるだろう。家族は距離が近いだけに節度を保てず、むずかしい面もある。受けてめてほしい気持ちが反転してしまうこともあるし、ときに泥沼化してしまうこともある。

同じことが居場所にも言える。居場所というのは、もやもやとした、言語化しにくい何かを大事にしている場だ。外形的なものや制度にはなじみにくい。それだけに、節度を保つには知恵がいる。ややもすると、際限なく承認を奪い合うバトルロワイヤル的な場と化してしまう。

外形的なものではなく、自分の「ありのまま」を受けとめ承認してほしい。そういう欲求は誰しも持っているものだろう。人が共同体から引き離されて、それを一手に吸収してきた学校や会社の価値も流動的で不安定なものになって、個々人が砂粒のような存在になってしまった結果、誰もが多かれ少なかれ「基底欠損」を抱えていると言えるだろう。それを親だけが受けとめるのは不可能だろうし、どこかの居場所だけで受けとめることもで不可能だろう。あるいは、底が抜けているからといって、外形的な価値でそれを穴埋めしようと思っても、上滑りしてしまうばかりだ。どこまで埋めてみても、むなしさがある。だから、少しずつ、部分的ではあるけれど、おたがいに節度をもって存在を受けとめ合っていくこと。そういうことしかないように思う。 (つづく)


「居場所」について-30

フォロのキャッチコピーは、昨年から「いるだけで、いい。」になっている。さんざん議論して、このコピーになった(私は「いるだけで、いいのだ。」と、バカボンパパ風にすることを断固主張していたのだが、圧倒的多数の意見で「のだ」は割愛……)。

でも、これは一番むずかしいことだと思う。
先に紹介した意見のように、誰しも他者からの承認を求めるし、外形的な価値がハッキリしないと、かえって強迫的に承認願望が強まってしまうこともあるだろう。自分自身についても、他者についても、いるだけ=存在価値を認めるというのは、とってもむずかしい。そんなのは、青くさい夢想にすぎないのだろうか。

私は、これも「あれかこれか」ではないのだと思う。どんな場であっても、人が集まればゴチャゴチャもするし、競い合いも生じてしまうし、値踏みし合うこともあるだろう。しかし、どこかで、いるだけ=存在価値を認め合っているのと、そういうものが希薄になって上滑りしているのとでは、ちがうように思う。人がいることの価値というのは、自分でも認識しにくいものだし、言語化もしにくい。ましてや外形的な価値にはならない。だけど、つねに関係の底流にあるものだろう。それが、かつては無意識のままにしていても、わりとうまくまわっていたのだろうが、いまは、放っておくと、どうもうまくまわらなくなっている。そういうことが言えるんじゃないだろうか。

だから、「居場所」であることを、あえて意識化すること、言語化すること、そして折り合いをつけたり異なる他者と共存する知恵をつむいでいくこと。そういう知恵が必要になっている。そうでないと、居場所のバトルロワイヤルみたいなことになりかねない。 (つづく)

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こんなのがあるんですね。肥料に使うんでしょうか。
「発酵」ではなく「醗酵」と書いてるわりに「糞」は「ふん」なんですね。
まさか牛の「粉」(肉骨粉!)ではないと思いますが……。
牛がフォークとスプーンを持っているのが謎です。
(※本文とは関係ありません、たぶん)

ぬか床、料理の三角形

ぬか床を育て(?)始めて、ひと月くらいになるだろうか。毎日毎日、いろいろ変化があって、おもしろい。毎日手を入れてかき回すが(文字通り“手入れ”だ)、日によって感触がちがう。水分や温度、におい、手触り、もちろん漬かった野菜の味も。水抜きをしたり、塩やぬかを足したり、ビールを入れたり、ぬか床の気配を感じながら、こうしたほうがいいかな、と思うほうに、手を入れていく。結果、なんかちがうということも多いが、だんだんコツというかツボというか、どうしたら菌のゴキゲンがいいのか、なんとなくつかめてきたような気がする。

そういえばクロード・レヴィ・ストロースが「料理の三角形」という図式で料理文化を分析していたが、それによると料理は「生のもの」「火にかけたもの」「発酵したもの」の三つになる。「生のもの」はいちばん自然に近い料理で、それに文化的な変形を加えるのが「火にかけたもの」、自然的変形を加えたのが「発酵したもの」、たしか、そんな図式だった。火にかけるというのは、人間の「文化」的な力を非対称的に加える感じがする(ただ、やみくもに強火にすればよいわけではなく、食材の状態をみながら加減をしないといけないが)。それに対して発酵の場合、温度やら湿度やら菌の生育環境によって大きく変化するし、人間が料理するというより、ゴキゲンをうかがいながら、菌の力を貸してもらっているという感じがする。

「居場所」とか、人の集まる場における知恵にも、「火にかける」ような知恵と、「発酵する」知恵のような、両方が必要なんだろうなと思う。「火にかける」というと、なんだか過激に聞こえるが、たとえば明文化したルールのような、自然状態をハッキリ加工するような知恵。「発酵」というのは、おたがいに察し合うことだったり、生き物としてのうごめきを、いい状態に共鳴させるような知恵。そんなふうに思う。

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ちょっと漬かりすぎくらいが私は好きです。

腐敗と発酵

話があちこち飛ぶうえ、再び菌の話で恐縮だが、「腐敗」と「発酵」のちがいについて、ちょっと思ったことがあったので。

腐敗と発酵というのは、いずれも微生物(細菌、酵母、カビなど)の分解作用のことを言うが、そのうち人間にとって有用なもののみを発酵というらしい。しかし、人間にとって有用とは何だろう? たとえば腐敗がなかったら、あらゆる動植物は分解されず、地球は死骸だらけになってしまう。腐敗こそ自然循環の要だ。小泉武夫さんによれば、石油も石炭も微生物の分解作用によってできたそうで、発酵を人間にとって有用な作用というなら、食品にかぎらず、大きく広げて考えないといけないという。それに、菌について99%はよくわかっていないらしく、1%くらいしか解明できていないという。まあ、微生物の分解作用のうち、そのごく一部を人間が利用させてもらっているにすぎないということだろう。

菌にかぎったことではないが、複雑系を生きている生き物を、人間の表面的な都合だけで悪玉にして敵対してしまうのは、浅知恵というものだろう。菌をやっつけるために抗生物質を使って耐性菌をつくってしまったり、害虫を駆除したつもりが生態系を破壊してしまったり、そんなことばかり、やっている。

もちろん、たとえばO-157を摂取したら大変なことになるわけで、どんな菌とも仲良くできるわけではない。しかし、それも固定的なものではないようだ。先に引いた青木皐(あおき・のぼる)さんによると、O-157というのは、今から30年ほど前に大腸菌が赤痢菌の遺伝子をなぜか取り込んで病原菌となったものだそうだ。菌が遺伝子レベルで変化すると、免疫が対応できず病原菌となる。しかし、免疫が追いついてしまうと、病原菌ではなくなったりする(だからワクチンが有効になる)。病原菌というのは、菌の側の変化と、免疫力の低下など人間側の変化と、双方の変化で生じるそうだ。パンデミックが怖れられているのは、物流や人の流れが世界を駆けめぐるなかで、いつどんな菌が遺伝子レベルで変化するかわからないからだ。どっちかというと、これは菌の側というより人間の側が引き起こしている問題だろう。

つまり、菌も、敵か味方かでは分けられない。ことはそう単純ではないのだ。

たとえば農業で病害を防ぐとき、農薬などで病原菌をやっつけるのではなく、ほかの菌を育て、「拮抗」することでバランスを保つほうがよいそうだ。あるいは先にも書いたが、腸内には「悪玉菌」も「善玉菌」もいるが、「善玉菌」だけにすればいいというわけではなく、バランスが重要ということらしい。

たぶん、農業というのは、それ自体、自然のバランスを崩すことだから、バランスを取り戻す知恵が必要ということなんだと思う。同じことは人間にも言えるかもしれない。人間の存在のあり方自体が、自然のバランスから離れているのだから、どこかでバランスを取り戻す知恵が必要なのだろう。

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ヨーグルト発酵中。自家製ヨーグルトって、ちゃんと乳酸発酵してくれてるのか、それとも雑菌が入っちゃって腐敗してるのか、わからないところがドキドキです。そういえば今日から『もやしもん』ドラマ版が始まるそうですね。


「居場所」について-29

「なんやかんや言うても、人に認められることが大事なんちゃうん?」

5月くらいだったか、どんぐり大学(*)で「生きづらさ」をテーマに話し合ったとき、参加者の女性から、そんな意見があった。人に承認されてないと、どこにも居場所はない。そんな意味合いだったように思う。実に率直な意見だ。

私は、そのとき、どういう価値尺度からの承認なのかが問題だと思う、というような返答をした。承認される価値には、学歴だとか資格だとか収入だとか、外形的な価値の場合もあるだろう。あるいは、ノリの中心にいるとか、場を仕切っているとか、それこそ「空気」として承認されるみたいなこともあるだろう。中心ではなくても、何らかの“キャラ”を演じて居場所を得るとか、そういうことも、ままあるだろう。学校だとか、資格だとか、外形的で固定的な価値が揺らいでいるぶん、そういう“キャラ”へのニーズは強迫的なまでに高まっているように思える。

しかし、どっちにしても、なんだか上滑りしている感じがする。そこには、おたがいを値踏みし合い、競い合っているキツさがある。そういう尺度で承認されて居場所を得ても、どこまでいっても不安なのではないか。

同じ集会の場で、別の女性は「悪目立ちするのは得意なんだけど、いくらやっても空しい気がする」ということを語っていた。その気持ちも、とても素直でわかるように思えた。

その人が“いる”ということ、存在価値のようなもの。そういうものを認め合う関係が土台にないと、スカスカになった関係のなかで表面的なポジションを競い合っていては、どこまで行っても苦しいように思う。  (つづく)

*どんぐり大学:神戸のフリースクール関係者や大学生で開いている自主大学。


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平野の大念仏寺にて(万仏おねり)。
悪目立ちなんて言ったら仏さんに怒られそうですが、ファッションショーのごとく、着ぐるみ(?)の仏さんが次々にやってくるんです。



閑話休題――つぶやき――

閑話休題

“ツイッター”がはやっているらしい。まわりで始めた人が多いので、閲覧だけしてみるが、ちっとも、おもしろさがわからない。きっと、自分も登録してつぶやいて、いろんな人とつぶやきを交わさないと、おもしろくないものなのだろう。

ちょっと前までは“ミクシィ”ばやりだった。次々にコミュニケーション・ツールが開発され、多くの人が、つながりをネットに求めている。それはそれで、関係を広げることができるものなのだろう。使えるツールはおおいに使えばいいだろうと思うのだが、なんだか、私は苦手だ。

「何言っとんねん、ブログやっとるやないかい!」と間髪入れずツッコミが入りそうなところだが、これはホームページとかといっしょで、活動報告や意見発表の場にしている感がある。ここでコミュニケーションをしたいとは思わない。

メールのやりとりでさえ、ときには疲れてしまう。電話で話せば、その場でニュアンスが伝わるところが、メールだと、何回もやりとりをしないといけなかったりするうえ、結局、スレちがいが拡がってしまったりする。だから最近は、込み入った話は、極力、メールではしないようにしている(もちろん便利なツールでひんぱんに使ってるし、何かを伝えるのにメールのほうがいい場合もあるが)。

メールでは、むんむんしたものが、きれいサッパリ抜け落ちてしまうので、それを穴埋めしようと、多くの人が顔文字やら絵文字やらを使って、なんとか「空気」をかもしだそうとしているのだと思うが、そういうことが、私にはとてもできない。

以前、喜納昌吉がライブのMCで、「文字は固体で氷みたいなもの。しゃべり言葉は液体で水。音楽は気体で水蒸気みたいに自由にどんどんと広がっていく」というようなことを話していた。うまいこと言うなと思って聞いていたが、メールというのは、固体なのに流動的で、どうもカタいものが流れている感じがしてしまうのかもしれない。逆に言うと、流動的なのにカタいので、憶測や不安を招きやすいような気がする。

実際、ネットでのコミュニケーションは、とても“炎上”しやすいし、過剰になりやすい。これも、たぶん、間合いとか共鳴みたいなものが欠けているがゆえじゃないだろうか。それとも、そんなのはネットでのコミュニケーションについていけないおっさんの“つぶやき”にすぎないのだろうか? こんど(7/31)、コムニタスのサロンでも“炎上”をテーマに話し合うことにしている。 (つづく)

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近所のお祭りにて。



「居場所」について-28

小沢牧子さんが以前、「空気を読む」とか「KY」という言葉を撲滅したい、と言っていた。なぜなら、そこには「多数派の空気に従え」という陰湿な圧力が含まれているからだ、と。そして「察する」という言葉を対比して、次のようなことをおっしゃっていた。

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おたがいを「察しあう」行為はとても大事だ。弱者が強者の気持ちに敏感になるばかりでなく、教師が生徒の気持ちを、上司が部下の気持ちを、親が子どもの気持ちを察するからこそ、おたがいの関係は温かなものになるのだ。「あいつの気持ちも察してやろうよ」というように。だから「察する」にはやさしさが漂うが、「空気読め」には屈折した意地悪が匂う。(『Fonte』237号「論説」2008)
…………………………………………………………………………………………………………

「KY」という言葉は、すでに死語と化しているのかもしれないが、その陰湿な圧力は、ますます強まっているようにも思える。

小沢さんは別のところで、次のようなことも書いていた。

…………………………………………………………………………………………………………
ところでこの「察する」だが、どうもこれは欧米語にうまく訳せない。そのことをわたしはかつてドイツで暮らしていたときに感じていた。むりに訳すと「理解する」というニュアンスになる。欧米の社会は「はっきり言葉で説明すること」に重きを置く文化を持っているので、言葉を通じて理解しあうことが関係の作法になっている。またそれが得意だ。その一方、言葉を介さない「察する」という習慣には不慣れである。たとえば狭い通路で人が立ち話をしている脇を、別の人が通りかかるとする。日本だと、立ち話をしている人は気配を察し、無意識のうちに身を動かして道を空け、通る方も当然のごとく黙って、または会釈くらいで通り過ぎる。ところがドイツでは「失礼」などと声をかけ、かけられた方はそこで初めて気がついて「どうぞ」と応じて道を空け、「ありがとう」と通っていくのが自然な風景である。以心伝心、無言のうちに相手の気配を察して動く風習は日本社会では当たり前でも、欧米の社会ではなんだか気味が悪い関係と感じられるかもしれない。なんといっても欧米は、言葉に重きを置く文化を持っているからだ。

わたし自身は言葉ではっきり伝えあうのも気持ちがよくて大好きだが、無言で察する力もまたかけがえのないものだと、その洗練された作法を大切なものに思っている。ただ「察する」は、とかく「迎合」や「卑屈さ」に転化しやすい。転化し堕落してしまった言葉、それがいまの「空気読め」の流行なのではないか。(季刊『子どもと昔話』35号/2008)
…………………………………………………………………………………………………………

これを読んだとき、私は、いまの社会の陰湿な空気を換気するには、「察し合う」だけではなく、ハッキリ言葉にして伝え合うということも、必要なのかもしれないと思った。ハッキリ言葉にしても大丈夫、そういう信頼が必要だと思う。 (つづく)

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こんなTシャツ、あるんですね。
 


「居場所」について-27

発達障害の場合にかぎらない。くりかえしになるが、現在は、それぞれの価値観がバラバラで、社会はこの上もなく流動的で、自由だが不安な社会だ。そういうなかで、「空気を読む」ことや他者の視線を意識することが、かつてないほどナーバスなものになっている。それは、そこに支配的な空気=ノリを読みとって、それに同調することとも言える。しかも、その空気はいつ変わるかわからない。いじめでもコロコロと加害者と被害者が入れ替わってしまうみたいに、その場を支配している空気=ノリは、つねにアンテナを張ってないと読むこともできない。だから、へとへとになってしまう。みんなが排除されまいと必死になっている。それは学校や職場にかぎらない。フリースクールやフリースペースだからといって、例外とは言えないだろう。

そこに支配的な空気を前提にして、必死に空気を読むのではなく、むしろ、空気のズレに配慮すること。なかなか難しいことで、私など鈍感きわまりないと自覚・自戒しているが、そういう配慮や知恵が必要になっていると思う。 (つづく)

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カマキリが脱皮してました。
本文とは関係ありません……。


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なるにわ
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自己紹介:
「なにものか」でなくともよい場所、なるにわ(NPO法人フォロが開いてます)。毎週土曜日の午後にサロンを開いているほか、づら研(生きづらさからの当事者研究会/月に1回)、終末ティータイム、冊子『もじにわ』刊行、なるにわラジオ配信などの活動をしています。ブログは、おもにコーディネーターの山下耕平が書いています。

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