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なるにわ ぶろぐ

「なにものか」でなくともよい場所、なるにわのブログです。
なるにわの活動、づら研などについて
おもに、コーディネーターの山下耕平が書いてます。

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カテゴリー「居場所について」の記事一覧

「居場所」について-26

以前、フリースクールのスタッフ学習会で発達障害をテーマにした際、「配慮」と「排除」はどうちがうのか、という話題になった。

発達障害の場合、関係を読みとりにくかったり、感覚過敏だったりすることがある(*)。「定型発達」の人たちが当たり前にしていることが当たり前ではなくて、了解している世界にズレがあると言ったらいいだろうか(「過敏」なんて言うのも定型発達の側からの見方で、発達障害の側から見れば定型発達者が「鈍感」ということになるだろう)。

そのズレがあるとき、定型発達の感覚を前提にしていると、その感覚をつかめない人を「あいつ、おかしいんちゃう?」とみてしまう。そこに「発達障害」という理解を入れることで、感覚のちがいを認め、ズレを整理できることもある。それは「配慮」と言ってもいいだろう。しかし、同時にそれは、レッテル貼りにもなりかねず、「発達障害者だからそうなんだ」という「排除」になってしまいかねない。「配慮」と「排除」は紙一重だ。

私は、これは方向の問題ではないかと思っている。自分の感覚を前提にして、相手を異質なものとしてくくってしまえば、それは排除になる。しかし、自分の感覚を自明のものとしないで、相手の感覚の側に立とうとすれば、それは配慮になる。同じように発達障害という概念を入れるにしても、この方向のちがいが、配慮と排除を分ける。そう言えないだろうか。 (つづく)

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*発達障害については、昨年不登校新聞社から出した『発達障害って何だろう?』というブックレットがあるので、よかったら読んでください(自費出版なので、不登校新聞社のサイトから注文できますが、書店などでは販売してません)。


「居場所」について-25

先に引いた上野千鶴子さんのインタビューに「ノイズのうちで、ノイズのままのものと、情報に転化するものがある」とあった。情報が発生するのはノイズからだが、ノイズのままでは情報ではない。このノイズが情報になるのに、とても大変な場合もある。

たとえば『発達障害者当事者研究』 という著書のある綾屋沙月さんは、アスペルガー症候群の当事者として、みずからの状態を次のように定義している。

「身体内外からの刺激や情報を細かく大量に拾いすぎてしまうため(選択肢の過剰)、意味や行動のまとめあげ(縮減)がゆっくりな状態。また、一度できた意味や行動のまとめあげパターンも容易にほどけやすい」(『発達障害当事者研究』医学書院2008)

また、最近ネットにアップされた論文で、綾屋さんは、現代社会は「総自閉症化」しているのではないかと指摘している。かつてとちがって、現在はひとつの価値観や技術で一生を生きていくことは難しくなり、産業も価値観もめまぐるしく変化している。また、共有するルールが喪失し「予測し得ない応答=ノイズ」が生じやすくなっている。そのため、「現代は、私が新たに定義したような自閉的傾向を多かれ少なかれ誰もが持つようになり、身動きがとれず立ちすくむ時代だとも言えるのではないか」と。そして、綾屋さんのように「ゆっくりていねいに意味や行動をまとめあげるタイプの人間が、そのような社会の中で『障害化』していったのではないか」と考察している。(「隙間に立ち上がるもの-ノイズ・ノリ・熟議-」2010

この論文、“すきま”だとか“ノイズ”を検索していて見つけたのだが、とってもおもしろかった。具体的な自分の経験から、ていねいに考察が深められている。こういう状況のなか、綾屋さんが実際にどうしてきたのか、今後にどういう方向を展望しているのかは、そんなに長い論文ではないので、ぜひ読んでみられたし。 (つづく)

*『発達障害当事者研究』はフォロにも置いてます。
『Fonte』291号(2010.06.01)にも、綾屋さんのインタビュー記事が出てます。購読してないと読めませんが、これもフォロで閲覧可能です。
 


「居場所」について-24

少し前にコムニタスの映画の時間で、『ガンジー』を観た。終盤、インド独立を前に激化するヒンドゥーとムスリムの対立のなか、ガンジーは争いを止めるため、激戦地となったカルカッタで「死に至る断食」に入る。そこに訪ねてきたヒンドゥーの若者がガンジーに、「自分は地獄に落ちる。ムスリムの子どもを殺してしまったから」と告白する。しかし、それは自分の息子が目の前でムスリムに殺されたからだった、と。ガンジーは彼に対し、次のように言う。

「地獄から抜け出る道がひとつだけある。それは親を失った子どもを拾って育てることだ。ただし、それはムスリムの子でなければならない。ムスリムの子をムスリムのまま育てなさい」

映画だから、美化している面も多分にあるだろう。それでも、このメッセージは、私たちにも響くもののように思う。異なる他者を異なるままに認め合うこと。それは、いまの砂を噛むような「地獄」を抜け出る、唯一の知恵でもあるだろう。 (つづく)

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東京タワーの蝋人形館にて撮影。
ガンジーさん、ごめんなさい……。

 


「居場所」について-23

以前、在日韓国人の知人が「帰化」というのは帰属同化のことだと教えてくれた。日本では、メンタリティまで同化しないと、国籍を取らせない。だから、ブラジルなど外国籍の児童が日本で育つのを支援するときも、日本と同化させることが「支援」とされてきたという。たとえるなら、“おじや”みたいに、個々のちがいがわからないくらいに同化させようとする。しかし、多文化共生というのは、サラダボウルみたいに、個々の文化を尊重しながら、それでいて調和のとれている状態だ、と。相撲とサッカーのちがいも、そんなところがあるような気がする。

なぜ、相撲やらサッカーやら帰化の話などを引き合いに出したかといえば、多文化共生というのは、外国人との共生にかぎらず、日本人どうしでも必要な概念だろうと思うからだ。いまや日本人だからといって一枚岩(=おじや)ではなくなっているわけで、社会構造的にも、バラバラになっている。それなのに、意識だけでは“いっしょ”であろうとして、ヒステリックになっている。異なる他者を異なるままに認め合う知恵が、すべての人に必要になっていると言えるだろう。  (つづく)

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でも、おじやって、おいしいですよね。
鍋の後とか最高ですが、季節的には、いまはいらない感じです。


閑話休題―相撲とサッカー―

Asasyoryu.jpg

閑話休題。

相撲界をみていると、いまの日本社会をよく象徴しているなと思う。門戸は開いていて、世界各国から力士を集めておきながら、ムードで同調を求める。朝青龍問題にしても、傷害事件が事実ならそれは問題にしても、そもそも陰湿な圧力はかかり続けていた。なんでガッツポーズが問題になるのか、「横綱の品格」とか言う人ほど品格がなさそうに見えるのはなぜなのか、日本に住んでいるのがイヤになるほどの陰湿さだった。元横綱の曙が新聞で「自分が横綱のときも、人によって言うことがちがうし、何をどうすればいいというのか、まるでわからなかった」というようなことを書いていたが、ほんとうにそうだろうなと思う(『朝日新聞』2010年2月5日)。

かつての角界とちがって、力士の育ってきた文化風土は多様だ。モンゴル相撲という、日本の相撲とはまたちがった相撲の文化も大きな影響を与えている。にもかかわらず、異なる他者と共存しているということが受けいれられず、ヒステリックな反応を引き起こしている。

対比してみるに、ワールドカップのサッカーなんかを観ていると、ルールは共通なのに、各国でサッカーの特色がちがっていて、おもしろい。明快なルールのもと、多様な文化が競演している感じがする。

相撲はスポーツではなく「神事」だと言ったりもするが、サッカーだって、たんなるスポーツではないのだろう。善し悪しは別として、ナショナルなアイデンティティにまで結びついている。もっと言えば、国家よりもそれぞれの都市の土着的(?)なアイデンティティに結びついた文化になっている。その土着的な文化が、サッカーという“土俵”の上で競演している。

もちろん、サッカーでも、ヨーロッパを始めとした「先進国」が資本の力で旧植民地から選手を青田買いしていたり、いろんな問題があるだろう。なんだか大英帝国の植民地政策と、大東亜共栄圏のちがいみたいな気もしてきた……。 (つづく)
 


「居場所」について-22

かつての学校や会社に、今よりは居場所性があったとしても、そこには別のキツさがあったにちがいない。一言で言えば、同調圧力だ。近代以前の古い共同体にしても、村社会的な閉塞性は強くあったわけで、それを安易に美化するのはノスタルジーでしかないだろう。しかし、だからといって、現在のほうがいい社会とも言えない。いまは、かつてより格段に自由で流動性は高くなったものの、底なしに不安な社会でもある。

おおざっぱに言って、共同体的な安心感というのは、“みんないっしょ”ゆえの安心感だろう。だから、異質なものは排除される。いまの日本は、古い共同体は崩壊して構造的にはバラバラになっているのに、意識だけは“みんないっしょ”の安心感を求めていて、そのギャップが問題を深めているように思える。異なる他者と共存する知恵のないままバラバラになってしまっているので、個々人が、ほんとうに砂粒のようになってしまって、砂を噛むような社会になってしまった。だから、過剰なまでに“いっしょ”であることの安心感を求めて、空気を読むことや他者の視線を意識することが、かつてないほどナーバスなものになっている。そして、ややもすると、敵か味方かという構図になってしまう。 (つづく)

oyaji.jpg

←たまたま見つけたのですが、
このお仲間になるのは、ちょっと遠慮したいかな、と……。


 


「居場所」について-21

だいぶ以前、『不登校新聞』で上野千鶴子さんにインタビューした際、上野さんは情報というのはノイズから生じる、とおっしゃっていた。そして、ノイズというのは、異なる他者のあいだで生じるものだ、と。以下、インタビューの一部を引用する。

…………………………………………………………………………………………
情報はどこから生まれるかといえば、「ちがい」から生まれるんです。いつもと同じ道を通り、いつもと同じところに行き、同じ人に会っていたら、「今日は何もなかった」ということになる。ところが、いつもとちがうところに行き、いつもとちがう人に会ったら、日記にも書くことがあったりする。たとえば外国人と接すると、あたりまえと思っていたことでも、いろいろ説明しなければならなくて、情報量があがるわけです。

異質な者どうしが接触したときに、ザワザワとした摩擦が起き、ノイズが発生する。情報理論では、情報のもとはノイズだと言います。ノイズのうちで、ノイズのままのものと、情報に転化するものがある。しかし、ノイズが発生しないところには情報は生まれようがない。できるだけ自分とちがう人と接触し、自分のなかにちがう世界を持つ。そうするとザワっとする。このザワッが情報のもとになる。

逆に、自分と似たような人とだけ付き合っていたら、情報発生が抑制されてしまいます。ノイズの発生しないような組織は、組織ごと沈没していくことになると思います。

学校も企業も、管理社会はノイズを抑制するように組織をつくってきました。そのほうが管理するのにラクですからね。同学年を集め、男だけ女だけで集めてきた。そこに外国人や障害児が入っていったり、学年を超えてクラス編成したりすれば、ノイズが発生するはずです。(『不登校新聞』119号)
…………………………………………………………………………………………

問題は、どうやって異なる他者が共生できる“フローラ”を構築できるかだろう。菌たちも、外界では生存競争をかけた仁義なき戦い(?)をしているようだが、なぜか腸内では共生するそうだ。腸に聞いたら、何かヒントを教えてくれるだろうか? (つづく)

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先日、奈良県御杖村にプチ合宿に行ったときに室生寺の近くで撮影。
とっても静かな何かが、ザワザワしてました。

 


「居場所」について-20

『ち・お』という雑誌の取材で、菌研究者(?)の青木皐(あおき・のぼる)さんにお話をうかがったことがある。青木さんいわく、善玉菌とか悪玉菌とかいうが、ほんとうは菌には善も悪ない。要はバランスの問題で、バランスが保たれていることが必要だ、と。だから、バイキン=悪というイメージが、とにかくよくないとおっしゃっていた。たとえば、腸内が善玉菌だけになったりしたら、逆におかしなことになってしまう。いろんな菌が共生していることが大事なのだ。

『もやしもん』でも、腸内は菌の共生地だというようなことが出ていた(1巻のおまけ)。それを“腸内フローラ”という。つまりは、菌のお花畑。しかし、100兆個もいるという腸内細菌も、胎児のときにはゼロだというから驚く。人が成長するというのは、多種多様な菌に感染し、共生することでもあるのだ。(それにしても、“腸内フローラ”って、ネーミングセンスが抜群だ。名付け親を知りたい。顕微鏡をのぞきこみながら、「おお、フローラ!」とか嘆息している、ちょっとマッドな科学者を想像してしまう……)。

同じことは人間どうしでも言えるだろう。人が集まれば、気の合う人もいれば、なんとなくウマの合わない人もいる。だからといって、気の合う人ばかりが集まればうまくいくかと言えば、そういうものではないだろう。共鳴というのは、ノイズもあってこその共鳴で、同じ波長ばかりだったら、そこに共鳴は起きない。 (つづく)

baikin.jpg
バイキンのイメージ?
これなら一匹飼いたいくらいです。


「居場所」について-19

ニッチ=“すきま”が必要だと書いたが、いまの世の中、スキマだらけと言えば、スキマだらけだ。学校にしても、会社にしても、家族にしても、かつてほど一枚岩のものではなくなって、スカスカになっている。多様といえば多様だし、スキマだらけと言えば、スキマだらけ。ただ、そのスキマは除菌されて無菌状態というか、真空地帯になって窒息状態というか、もやもやとした空間ではない。もっと言えば、そのスキマは、「社会」からすべり落ちてしまうスキマにしかなっていない。すべり台社会というのは、そういうことだろう。往きつ戻りつできないのだ。だから、選択肢は多様になっても、強迫観念は増すばかりのように思える。

ニッチという言葉は、ベンチャー企業なんかがビジネスチャンスを見いだすときによく使われる。それは、社会のすみずみまで、くまなく商品化され尽くしたように見える社会にあって、まだ商品価値になるスキマを探そうということだろう。そして、このスキマだらけのすべり台社会のなかで、そこに生きる不安や苦しささえも、ビジネスの対象になっている。あるいは、このスキマのキツさを埋めるために、精神医療や心理療法が要請されているとも言えるだろう。

しかし、それがキツいからといって、ちょっと以前まで成り立っていた一枚岩の学校や会社が望ましいというわけでもないだろう。それはそれで、抑圧的だったにちがいないのだから。

私が夢想するのは、スキマをかもして“すきま”にすること。スキマだらけの社会構造を逆手にとって、スキマに居場所をかもし出すことだ。 (つづく)

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←出雲市にあるカフェだそうです。和風カフェなのに、なぜか外観はキッチュな洋風ですね。
 


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「なにものか」でなくともよい場所、なるにわ(NPO法人フォロが開いてます)。毎週土曜日の午後にサロンを開いているほか、づら研(生きづらさからの当事者研究会/月に1回)、終末ティータイム、冊子『もじにわ』刊行、なるにわラジオ配信などの活動をしています。ブログは、おもにコーディネーターの山下耕平が書いています。

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