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なるにわ ぶろぐ

「なにものか」でなくともよい場所、なるにわのブログです。
なるにわの活動、づら研などについて
おもに、コーディネーターの山下耕平が書いてます。

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カテゴリー「居場所について」の記事一覧

「居場所」について-18

いまの世の中、選択肢は増えたが、選択ばかりで疲れる。そんな感じがする。選択というのは、どうしても「あれかこれか」で二値的だ。そこには、あいまいさが許されない。そういうキツさが、世の中の空気をカチンコチンにしてしまった。それが、とても言語化しにくい生きづらさとなって、多くの人が息の詰まるような息苦しさを覚えている。とくに人間関係やコミュニケーションが二値的なものになってしまうと、緊張度が極度に高くなって、“炎上”しやすくなる。どうやったら、この二値の呪縛を解きほぐすことができるのだろうか。

私は、二値ではなくニッチ=“すきま”が必要なんだと思う。〈あれ〉でも〈これ〉でもない“すきま”に居場所をかもしだしていくこと。学校でも家族でも会社でもない“すきま”。フリースクールだとかフリースペースというのは、“すきま”だからこそ、求められてきたものだろう。

あるいは、自分のなかにも、「あれかこれか」ではない“すきま”を持つこと。矛盾を往きつ戻りつできるような“すきま”。他者にも、そういう“すきま”を感じとること。そこに、共鳴的なもの、信頼のようなものがかもされるのではないだろうか。そして、その共鳴が居場所をかもしていく。

菌や酵母やカビたちが、いつのまにかデンプンとか糖をかもしているみたいに、共鳴的な“何か”が、いつのまにかあちこちで居場所をかもしている。そんなイメージを夢想してしまう。居場所を「かもすぞー」って、なんだか楽しい。 (つづく)

yukamin.JPG

←コムニタス・フォロのゆるキャラか?
3月にクッキングハウスにおじゃましたとき、Nさんが購入しました。
名前は“ゆかみん”とか。


閑話休題―もやしもん―

閑話休題。

いま、『もやしもん』にハマっている。このマンガ、ずいぶん話題になっているようで、近々にはドラマ化までされるそうだが、ごく最近まで私は知らなかった。コムニタスで「最近、菌にハマっててね」という話をしてたら、『もやしもん』既刊全8巻を借していただいた。いま、6巻を読んでいる最中(細部がおもしろいので、読むのにめっちゃ時間がかかる!)。

目に見えない菌が、人間の認識していないところで、めくるめく循環をかもしだしている。その循環のなかに、人間もいる。菌は表皮にも体内にも膨大量いる。腸内細菌は100種類100兆個とも言われ、人間の細胞60兆個よりずっと多い。ウンコの半分は菌の死骸だとか。菌は私たちの生命の一部でもある。

とりあえず、私も菌と仲良くしようと思って、ぬか床をつくった。
ぬか床って、ものすっごく、むんむんしてて、キュウリなんぞ、あっという間にかもされてしまう。「かもせー」「かもすぞー」って言う声が聴こえてきそうだ。

nuka.JPG

←わが家のぬか床です。菌が見える気がするのは、気のせいです、きっと。


「居場所」について-17

“くされ縁”という言葉がある。なんだかツボを突いた表現だ。これも英語とかには翻訳できなさそうだ。日本語でも、広辞苑で調べたら、あまりいい意味では書いてなかった。

しかし、人が「まあ、くされ縁だと思ってつきあうよ」とか「あいつとはくされ縁でね」とか照れくさそうに言うのは、いわば反語的な言い回しだろう。そこには、外面だけのつきあいではなく、むしろ長い時間をかけて発酵してかもしだされたような関係、“縁”だというニュアンスがある。矛盾や揺れを含んでいて、それでも肯定してしまうような微妙な感じがいい。第一、“縁”という言葉には、“関係”なんて言葉とちがって、なんか簡単には割り切れなさそうな何かが漂っている。 (つづく)

nakajima.jpg



←“くされ縁”で画像検索したら、サザエさんの中島くんが出てきました。ちなみに、フルネームは中島弘だそうです(ウィキペディア情報)。

「居場所」について-16

先だって、コムニタスのサロンで、バイトをネタに話し合った。具体的な経験から、いろいろ話したのだが、そのなかで、大企業と小規模事業所では、同じバイトでもちがうという話があがった。大企業の場合、自分がいつでも取替え可能な交換部品のようなむなしさがある反面、休んだり辞めたりするのも、わりと自由にできて、ドライにサッパリ働ける(そのぶん、ドライにサッパリ解雇されることもあるだろう)。小規模事業所の場合、情でつながっている面があって、あたたかくていい面もあるが、休んだり辞めたりはしにくい。サッパリとは割り切れないものがある。

私自身、某大企業のチェーン店でバイトしているが、そのキツさとラクさは、両面あるなと感じる。逆に言えば、NPOで働いていても、カネより情、共鳴でつながっているぶん、充実している反面、しんどいこともある。

ただ、それは比重の問題だなとも思う。バイト先でも、薄いながらに共鳴的なつながり(居場所性)はあるし、仕事にも、やりがいがないとは言えない(あくまで、その程度だが)。NPOでも、ドライに考えないといけない面はあるし、やりたくない仕事もある(会計とか税務とか!)。つまり、これも「あれかこれか」では考えられない。学校や営利企業=悪、フリースクールや非営利団体=善みたいなことではない。当たり前のことだが、どこかにユートピアがあるわけではない。どんなにいい関係でも、不満のない関係なんてあり得ない。

なんだかくり返しになっているような気がするが、現実はつねに複層的で矛盾しているものだろう。それなのに、どうしても私たちは二値的な思考(あれかこれか)に縛られがちだ。その呪縛を解きほぐさないといけないと思う。 (つづく)

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三室戸寺にて。


「居場所」について-15

ここまで、いまの社会のキツさは、言語化しにくい“何か”が失われていることだと書いてきた。あえて言うなら“共鳴”とか“間合い”のようなもの。居場所が必要とされるのは、そういう共鳴が求められているからだ、と。

しかし、共鳴というのは、いい共鳴ばかりでもない。バッド共鳴もある。たとえば家族だって、共鳴度が高くて距離が近いだけに安心感もあるが、バッド共鳴してしまうと、とってもしんどい。いいことばかりはありゃしない、のだ。

そういうときに、距離をとったり、関係を組み替えたりすることが必要なことはあるだろう。しかし、それは「あれかこれか」で選べるようなことではない。折り合いをつけたり、調整したり、往きつ戻りつすることが必要だ。そういうことができなくなったとき、関係は破綻する。ときには関係を絶つことが必要なことも、もちろんあるだろう。しかし、それも「選択」ではないように思う。そんなに、サッパリとはいかないものじゃないだろうか。 (つづく)


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←いやあ、“バッド”で画像検索したら、マイケルのコスチューム販売サイトに行き当たってしまいました。

img56463890.jpg


←こちらはマイケルのマスク(美白版)。

「居場所」について-14

関係を選択=交換原理にかけるというのは、つまりは関係の商品化ということだろう。関係を商品化してしまうと、関係は貧困化する。

湯浅誠さんは、貧困とは“溜め”のない状態だという。おカネだけではなく、人間関係や精神的なゆとりも含め、いろんな“溜め”が枯渇している状態が貧困なのだ、と。これをもう少し考えると、私たちの社会は、いろんな“溜め”を商品に置き換えることで経済を活性化させた反面、ものすごく関係を貧困化させているのだと思う。うっとうしい人間関係に縛られない反面、おカネがなくなったら、自分を支えてくれるものがない。

商品関係というのは、とってもサッパリしている。自由で流動性が高い。しかし、人と人の関係まで商品化してしまうと、人は底なしの不安に落ち込んでしまう。制度や言語にはしがたい、もやもやとした“何か”が人を支えるセーフティネットになってきたのだと思う。そういう“何か”を抜きにして、サービスや制度だけで人は生きていけないのだと私は思う。 (つづく)

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←“溜め”で画像検索。ブレーキ制御に使うそうです。
私は、最初「空元気溜め」と読んでしまって、いったい何じゃと思ってました。


「居場所」について-13

人間関係が「あれかこれか」の二値的なものになってしまっている。それが、いまの世の中のキツさの一因であるように感じる。人間関係が、選択的なもの=交換原理にかけられてしまっている。しかし、人と人との関係というのは、選択にかけるものではないのだと思う。

たとえば親子関係にしても、子どもは親を選べないし、親も子どもを選んだわけではない(出生前診断や人工授精の問題などはあるが)。どんなにできない子どもであろうと、どんなに親の気に入らない子どもであろうと、だから子どもを「もっといい子」に取り替えようというならば、それは子どもを殺す選択に等しい。逆に、子どもからすれば、どんなに親がイヤでも、親を取り替えることはできない。ただ、子どもにとって、親を相対化できるような大人との出会いは絶対に必要だし、場合によっては親から逃げることが必要だ。

また、親にしてみれば、選べない(子どもを取り替えるわけにはいかない)からこそ、子どもが不登校になったとき、痛みとともに自分の価値観の問い直しを迫られてきたと言える。

関係というのは、つねに自分の思うままにはならないものだろう。相手がいるのだから当たり前のことだ。そして、〈自分〉と思っているものも、〈相手〉と思っているものも、関係のなかに生成しているものだから、つねに変化しつづけている。固定的なカチンコチンのものではない。 (つづく)

kama.jpg

今日、家で息子が飼っている(?)カマキリのタマゴが孵化してました。
※本文とは関係ありません、たぶん。


閑話休題―むんむん―

閑話休題。

梅雨に入りそうな気配だ。湿気と熱気がむんむんしてきた。こと大阪の梅雨は高温多湿で、毎年くたびれる。

IMG_2083.JPGでも、このむせ返るようなむんむんは、生き物の気配だなとも感じる。見えない菌類から、さかりのついた猫、カエルの鳴き声やら虫の羽音まで、いろんな生き物がうごめいている。

クーラーだとか除湿器だとかで、そうしたむんむんをサッパリ消し去ってしまうと、自分のうごめきまで縮んでしまうような気がする。生き物どうしは、きっと、このむんむんで間合いをはかっているにちがいない。むんむんがないと、人間どうしでも間合いがはかれないんじゃなかろうか……なんて言いつつも、梅雨はやっぱりうっとうしい。
『Fonte』291号「ひといき」欄に書いた記事を転載)

※写真は昔、沖縄で撮影したカタツムリ。デカかったです!
 


「居場所」について-12

居場所が、ゆるい場所であることを信条とするのは、世の中が、どんどんカチンコチンになっていくなかで、人と人が共鳴できるような、ゆるさこそが求められているからだろう。カチンコチンがほぐれることが、何より必要だ。

ところが、最近、居場所に関わっていても、難しさを感じることが多い。人間関係が、カチンコチンになりやすくなっている。そんなふうに感じているのは、私だけだろうか?

人が集まれば、かならずゴチャゴチャするものだろう。問題の起きない集団は、逆にこわい。ただ、問題が起きたら、話し合うなり折り合いをつけるなりして、そのつど調整していくものだと思う。しかし、そういう話し合いとか折り合いとか調整とかいうことが、すごく難しくなっているように感じるのだ。

不満なことや傷つくことがあっても、なかなか相手には言えない。言わなくても気持ちの整理がつくのならいいが、不燃ガスがたまってしまって、結局は、相手を「敵」にしてしまって、ようやく言える。あるいは本人には言わず、ネット上に不満をぶちまけてしまったり、対面のときは穏和なのにメールで激しい内容が送られてきたり……でも、そうなると攻撃的になってしまうし、関係は破綻してしまう。そういうことが、増えているように感じる。きっと、それはフリースペースなどにかぎって生じていることではなくて、あちこちで生じていることだと思う。

パソコンの原理ではないが、人間関係でも、二値的な思考が幅をきかせているように感じる。相手を敵か味方かに二分してしまって、全面的に味方になってくれるか、さもなければ敵か。どっちにしても、緊張感がとても強い。ふだんは、関係が破綻しないように、おたがいに相手を配慮し合っていて、やさしい関係のようだが、本音を出し合えないので、自分を開いても大丈夫と思えるような信頼にならない。

人間関係にあっても、往きつ戻りつする“ゆるさ”が必要なんだと思う。 (つづく)

gas.jpg


←“不燃ガス”で画像検索。ヘリウムもありました。
 不燃ガスは燃えないんだから、上記の比喩はまちがいかもと思いつつ……。


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「なにものか」でなくともよい場所、なるにわ(NPO法人フォロが開いてます)。毎週土曜日の午後にサロンを開いているほか、づら研(生きづらさからの当事者研究会/月に1回)、終末ティータイム、冊子『もじにわ』刊行、なるにわラジオ配信などの活動をしています。ブログは、おもにコーディネーターの山下耕平が書いています。

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