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なるにわ ぶろぐ

「なにものか」でなくともよい場所、なるにわのブログです。
なるにわの活動、づら研などについて
おもに、コーディネーターの山下耕平が書いてます。

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カテゴリー「居場所について」の記事一覧

「居場所」について-11

じゃあ、どうすればいいのか。居場所が必要だとか関係が貧困化しているとかいっても、具体的な運動として、何ができるというのか。こういう問いを、よくぶつけられる。

そういうとき、私は「とりあえず脱力すること」と応えたりしている。居場所をつむぎだしていこうというのに、シャカリキになって、しかめ面をしていても始まらない。自分がゆるまないことには、人とつながることはできない。

居場所というのは、たぶん“つながっている感”であって、現象的に通っているかどうかとか、制度として認められているかどうかとか、マスコミに取り上げられるかどうかとか、そういうことは、あまり関係ない。法律や制度や言葉ではすくいきれない何か。そういうモヤモヤとしたものを取り戻す必要があるのだと思う。

世の中の変化というのは、どのみち一筋縄ではいかない。複雑系というヤツだ。一見、役に立ちそうなことより、ムダにしか見えないことのほうが、実際には役に立っていることが、たくさんある。

sento.jpgたとえば、“せんとくん”が出てきたときは、各方面から非難ゴーゴーだった。仏教界からは「仏様を侮辱している」との批判まであったとか。でも、いまや、せんとくんの圧勝だ。あれこそが“ゆるキャラ”だと、私は思う。マジメにやっているつもりなのに、ツッコミどころ満載で、そのゆるさゆえに人をひきつけてしまう。

1回目で、「居場所」は英訳不可能だと書いたが、「ゆるい」というニュアンスも、たぶん翻訳不可能なんじゃないかと思う。各自治体が競って“ゆるキャラ”づくりをしている国なんて、日本くらいじゃないかと思うが、カチンコチンな社会をゆるめようというのは、無意識のうちに、みんなが欲していることなんだろうと思う。 (つづく)


「居場所」について-10

話の流れ上、不登校やフリースクールが軸になってしまったが、労働についても同じことが言えるだろう。かつてのように、会社が共同体的な役割を果たしているということは、いまやない。だけど、会社が共同体というのも、キツイ面があったにちがいない。いまは、かつてよりは働き方が「多様」になっているが、賃労働しかないという意味では、むしろ画一化されていて、そのうえ非正規雇用では、生存に関わるほど不安定だ。しかし、だからといって、正社員を増やせという話ではないだろうと私は思う。むしろ、非正規雇用でも余裕をもって生きていけるようにしないといけない。

それには、オランダのような同一価値労働・同一賃金の仕組みや、ベーシックインカムなど、いろんな方策が考えられると思うが、不勉強なうえ、テーマがちょっとズレてくるので、ここでは、これ以上、踏み込まないことにする。

NPOで働くとか、オルタナティブな働き方というのも、あまり理想化しないほうがいいと私は思っている。現実というのは、つねに矛盾や問題をはらんでいるもので、NPOだからといってユートピアなわけではない。悩みや葛藤も当然ある。ヘンに“リッパ”なものとして理想化してしまうと、かえって、そうした悩みや葛藤を抑圧してしまう。NPOで働いているほうがワーカーホリックなんてことも、ままあることだ。働くことに生きがいを見いだすのは悪いことではないが、そればっかりじゃなくてもいいだろう。どんなに理想的なことだろうと、価値尺度が一元化してしまうと、苦しい。

どっちにしても、人が生きるというのは、「あれかこれか」という硬直した選択ではない。矛盾した複層性のなかを、往きつ戻りつし、悩みながら生きている。苦しいことかもしれないが、それはまっとうな苦しみだと思う。 (つづく)

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←“オランダモデル”で画像検索
もうすぐワールドカップですね。


「居場所」について-9

学習手段の選択肢が増えること。これは歓迎していいことだろう。学校のような集団主義、画一主義、上からの一方通行の教育ばかりが、学ぶことではない。私は学校の多様化に反対しているわけではない。

しかし、居場所は「あれかこれか」で選択するものではないと思う。むしろ、居場所は複数を複層的に持つほうがいい。学校にも所属、フリースクールに所属でもいいではないか。部分的に複層的に、さまざまな関係の網の目の結び目のひとつとして自分がいる。当たり前といえば、当たり前のことだ。その当たり前のことが許されないことが、おかしい。

いまの学校の問題のひとつは、子どもの関係の場を、あまりに独占してきたことだろう。そのうえ、価値観が一元化されてしまい、逃げ場がまったくない。不登校の統計上での定義は、年間30日以上の長期欠席者だ(経済的な理由や病気などをのぞく)。30日学校を欠席することが問題になること自体、そもそもおかしい。30日どころか、カゼやケガでもないのに子どもが数日学校を休んだら、それだけで、たいがいの親はあわてるだろう。

しかし、この壁は分厚い……不登校が、何十年も問題であり続けているだけのことはある。たとえカタチだけ学校を縮小したとしても、学校的価値の時間や空間(塾や習い事など)が増えるだけでは、子どもはますます息苦しいだろう。スキマなく商品価値で埋め尽くされていく社会のなかで、なんとかスキマを見いだして、そこに居場所をつむぎだしていくことは、ますます必要だと思うが、ますます難しくなっている。 (つづく)

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←“すきま”で画像検索したら、出てきた。
猫って、居場所を見つけるの、上手だと思う。

「居場所」について-8

フリースクールなどを公的に認めさせて、学校と並べて選択できるものにしようという動きがある。以前、このブログにも、そうした動きへの反対意見を載せたが、ここではくり返さない。ここで再度考えたいのは、「選択」という発想そのものだ。

学校とフリースクールとを選択できるようになれば、不登校は楽になるだろうか? 私はちっとも、そうはならないだろうと思う。なぜなら、「あれかこれか」という発想は、カチンコチンになってしまうからだ。たとえば、学校よりフリースクールを選んだといった場合、その選択は、“リッパ”なものじゃないといけなくなってしまう。ゆるい居場所で日がなゲームしてます、というわけにはいかないだろう。どんなに「いい教育」のつもりでも、あんまりたいそうな理念を掲げると、かえって子どもを抑圧してしまうこともあると思う。そういう場合、揺れや葛藤が、より深く抑圧されてしまうように思える。

「選択」というのは、いわば交換原理の発想だ。「あれかこれか」の選択にかけると、交換価値を競うことになってしまう。そのとき、居場所から、言葉にしがたい“何か”が、抜け落ちてしまう。たとえば、2回目に書いた、信頼=Trustと、信用=Creditのちがい。居場所が、根拠なく信頼できる場ではなくて、交換価値があるから信用できる場になってしまうのではないか。

いま、「生きづらさ」ということが盛んに言われるのは、交換原理だけでは人は生きていけないということなんだと思う。きっと、交換原理にかけてはいけないものというのがあるのだ。 (つづく)

tom.jpg



「あれかこれか」で画像検索してみたら、
←こんなのが出てきた。

「居場所」について-7

現実というのは、常に複層的なものじゃないだろうか。矛盾したものが、いつも同居している。その複層のなかを、往きつ戻りつしながら、自分の考えなり生き方なりが練られていくのだと思う。価値観が一元化されてしまうと、その往復ができなくなって、カチンコチンになってしまう。それが苦しいのだと思う。それは、世間の価値観に自分を合わせている場合だけではなく、オルタナティブな価値観を求める場合でも、同じだろう。理念として掲げたものに、現実を無理に鋳込んでしまうと、カチンコチンになってしまう。

昔、数学者の森毅さんにインタビューしたとき、森さんは「枠スレスレが一番」というようなことをおっしゃっていた。境目があいまいで、気軽に出入りできる自由があるのがいい集団で、自分は、いつも枠スレスレで生きてきた。ところが、最近はその境目が刈り取られて無人地帯みたいになってしまって、境目をフラフラすることができなくなってしまった、と。
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矛盾を矛盾のままに抱えていられること。矛盾というのは、たぶん、動力源だ。ちょうど磁力の反発でモーターが回るみたいに。矛盾があるから考えるし、迷い、葛藤するけれども、カチンコチンにならず、生きた自分を生きられる。 (つづく)
 


「居場所」について-6

近代化のなかで、社会の価値観が一元化してしまい、そこから外れることは「病気」として排除されてきた。そこで、排除させまいとする気持ちはわからなくもないが、一元化されていることが、そもそも苦しいのだ。

たとえば学校に行かなくなったとき、子どもが平日の昼間に外に出るのは、とても困難だ。「今日、学校は?」という視線が地域に張りめぐらされている。子どもをひきこもらせるのは、周囲の視線であり、価値観だとも言える(あるいは内面化された自分の価値観)。しかも、家にいたところで、親までが自分を否定的な存在として見ている。子どもは存在そのものが否定されていると言ってもいい。そうしたとき、別の価値尺度との出会いがなければ、世界は真っ暗に閉ざされてしまうだろう。

フリースクールなどとの出会いは、ある意味では「光」に思えることもあるだろう。しかし、くりかえし言えば、そこは別にユートピアなわけではない。おカネと無縁で生きられるわけではないし、人が集まれば問題もいろいろ生じる。むしろ、べてるの家ではないけれど、「問題だらけ」だ。あるいは、別の価値尺度と出会ったことで、かえって信じていたものが揺らいでしまって、苦しいこともあるだろう。でも、その苦しみは、まっとうなものだと私は思う。

ここで大事だと思うのは、価値尺度は複層的であってよくて、あれかこれかではない、ということだ。フリースクールなどに出会って、学校なんか行かなくてもいいと思ったりする。その一方で、将来への不安や、やっぱり学歴は必要かもしれないと思ったりする。それで、まったくかまわない。いろいろ揺れ動きながら、葛藤しながら、価値尺度が相対化できれば、それでいいんじゃないかと思う。 (つづく)


「居場所」について-5

先日(5/9)、日本社会臨床学会のシンポに出させていただいた際、何人もの方が「居場所論でよいのか」という疑問を寄せてくださった。それを私なりにおおざっぱにまとめると、以下のようなことだったと思う。

学校や職場がキツくなる一方のなか、競争にそぐわない人が排除されている。そこで学校や職場の外に居場所をつくっても、スケープゴートになるだけで、かえって学校や職場はキツくなっているのではないか。経済的価値に見合わない人ほど、そこに居つづけることが必要なのではないか。

一理あるとも言える。しかし、それでも私はやっぱり、居場所は必要だと思う。わざわざ創出する必要がある。

多くの人にとって学校や会社が居場所であったとしても、それは古い共同体を丸呑みにして成り立ってきたからで、一時代のものに過ぎないと思う。これは、言い方を変えれば、共同体が利益社会に丸ごと移ってしまったということだから、それ自体、とてもキツいことだったにちがいない。だからこそ、不登校が現象化してきたとも言える。(つづく)


愛し合ってるかい?―閑話休題―

閑話休題。
昨年5月に亡くなった忌野清志郎の「涙のプリンセス」という曲に、こういう一節がある。

世界はなぜ愛を見失い
傷つけ合うんだ
人々は今 孤独の中
信じ合う術を知らない
砂を噛むような夢に踊るのか
涙のプリンセス
(作詞・作曲:忌野清志郎、三宅伸治)

清志郎の「愛し合ってるかい?」が、こだまする。
なんてシンプルに、なんて直截に響くんだろうと思う。
砂を噛むような社会のなかで、ほんとうに必要なのは、愛し合うこと、にちがいない。
(私が言うとウサンくさいとメンバーのMくんに言われた……)

↓完全復活祭(2008@武道館)での「愛し合ってるかい?」
 


「居場所」について-4

フリースクールだとか若者の居場所だとかいう場合も、そこは経済的な価値とは別の価値尺度の場であることが必要だと思う。学校復帰や就労支援が無意味だとまでは言わないが、自分たちの価値尺度を自明のものとして問い直さず、そこから外れる人を「支援」しようと言うのであれば、厚顔無恥だと言いたくなる。あるいは逆に、フリースクールだからすばらしい教育だとかいう言説も、具合が悪いように思う。フリースクールみたいなものは、もっとムダというか、ゆるい場でいいのではないか。世間の価値尺度とはちがう場だからこそ、居場所になるのではないか。

しかし、その場合でも、そこが経済的な価値と無縁のユートピアなわけではない。第一、場の運営におカネは必要なわけで、自前で運営していたら参加者からの会費も必要だ。一元化してしまった価値尺度を相対化することは必要だけれども、経済的な価値と無縁で生きることは不可能と言ってもいい。そこで、私は「部分的に魂を売る」とか「解離的に生きるしかない」と言っていたりするのだが、価値観も、自分の生きる場も、複層的に柔軟に生きることが必要だと思っている。しかし、これは矛盾していることでもあるので、なかなか理解されにくい。  (つづく)


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「なにものか」でなくともよい場所、なるにわ(NPO法人フォロが開いてます)。毎週土曜日の午後にサロンを開いているほか、づら研(生きづらさからの当事者研究会/月に1回)、終末ティータイム、冊子『もじにわ』刊行、なるにわラジオ配信などの活動をしています。ブログは、おもにコーディネーターの山下耕平が書いています。

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