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なるにわ ぶろぐ

「なにものか」でなくともよい場所、なるにわのブログです。
なるにわの活動、づら研などについて
おもに、コーディネーターの山下耕平が書いてます。

© NPO法人フォロ

   
カテゴリー「づら研」の記事一覧

公開づら研、開きます。

今年も公開づら研、開きます。

今回は、不登校新聞社で『Fonte』編集長を務める石井志昂さんにレポートを書いてきていただき、そのレポートをもとに、公開でづら研を開きます。
 

石井さんは中学生のときに学校に行かなくなったあと、フリースクール東京シューレに通い、その後、『不登校新聞』(現『Fonte』)創刊時から、子ども若者編集部に関わりはじめ、19歳で「就職」、7年前から編集長を務めてます。フリースクール時代から、自身の不登校経験を語り、「不登校・ひきこもり」の全面肯定を謳ってきた石井さんに、おためごかし一切なしに(不登校を世の中に認めてもらうため、子どもの安心のため、親の不安解消のため、フリースクールの認知を広めるためetc..)、お話をうかがいたいと思います。
乞うご期待!



日 時:10/28(月)13:30~17:00

場 所:市民活動スクエア「CANVAS谷町」

参加費:500円

・レポート:石井志昂(不登校新聞社『Fonte』編集長)
・テーマ:不登校は私の「アイデンティティ」なのか?
     ~不登校経験者としての語りを考える~

主 催:づら研(NPO法人フォロ)

づら研「ぶきっちょ自慢大会」

今月のづら研は「ぶきっちょ自慢大会」を開きました。たいへんおもしろかったです。
手先のぶきっちょさに始まり、段取りや準備に時間がかかる、手順を踏むことができない、人と接するのが苦手、人の目や他者からの評価がすごく気になってしまうなど、さまざまな“ぶきっちょ”がカミングアウトされました(あんまりディテールを書いてしまうとプライバシーに関わると思うので割愛)。

いろいろに出されたぶきっちょを、貴戸理恵さんは下記のように類型化してくれました。

・身体と結びついたもの。
・あるべき生活習慣になじめないもの。
・人間関係におけるもの

また、それぞれ、自分のぶきっちょさゆえの困難対処法を持っていて、それがまた、おもしろかったです。人のつくったルールに合わせようと思うと無理なので自分ルールをつくるとか、突然のことだとパニックになるので、あらかじめシチュエーションをつくっておくとか、人と会ったときに、まずタイプを決めておくとか、同世代のノリには合わないので年長者と親しくして孤立を避けるとか、いろいろな工夫が語られました。

そのなかで、ストレスが溜まったときに自傷行為をする、という話から、自分のクセの話になって、ぶきっちょ自慢から、恥ずかしいクセのカミングアウト大会になりました。これもまた、ディテールは控えますが、まあ、みなさん、いろんなクセをお持ちのこと。そして、それは恥ずかしいこととして、なかなか話さないできたということ、しかし話してしまうと解放感があって、私自身も、なんだかスッキリしました。自分のことは書いてもかまわないので言ってしまうと、私のクセのひとつは、髪の毛をいじることです。指先で切れ毛とか、へろへろになった毛をなぞって、切れ毛をぷちっと取ったり、へろへろ毛を抜いたり……。

自傷行為にしても、いろんなクセにしても、言語化できない欲望やら無意識やらの、アース線になっているところはあるのだろうなと思いました。自分を傷つけたい、否定されることが心地いい、といった欲望も端々に湧き出してきて、そういうキレイには語れないものが吐き出せることって大事だなと、あらためて感じた次第です。

次回は、10月7日(月)で、いつもとちがって第1月曜日の開催です。
男性と女性に分けて開く予定。場所が確定したら、またお知らせします。

づら研冊子第2弾出来!

づら研こと、生きづらさからの当事者研究会の冊子の第2弾ができました。
開始2年目のレポートを収載。第1弾よりページ倍増、内容充実、ぜひ読まれたし!

『づら研やってます。生きづらさからの当事者研究会レポートVol.02』
頒価400円(送料別) A5版136p

→申し込みフォーマット

目 次
●はじめに
●マンガでづら研紹介
●づら研、こんなふうにやってます
●づら研レポート
 ・「父親との関係」
 ・「手記」
 ・「教育への否定と批判(1)」
 ・「孤独」
 ・「存在の承認」
 ・「バカボンのパパになりたくて」
 ・「生きづらさの連鎖」
 ・「未生~生きづらい女性はどこにいる?」
 ・「『わらべのごとく!』の自己分析」
 ・マンガ「わらべのごとく!」
●レポート以外のテーマ
 ・学校について
 ・友だちについて
●出前づら研
●づら研に参加して

出前づら研@松江

松江に出前づら研に行ってきました。こちらからは若者4名、貴戸さん、私ふくめて総勢6名が参加、現地からは40名近い方、しかも若者が多く参加してくださいました。当日は、づら研メンバー津路さんのレポート「承認と依存」をベースに進行。レポートは、恋人ができたことがないという“非モテ”カミングアウトから始まり、母親との関係、自分の子ども時代を問い直し、妄想的に承認を求めるのではなく、葛藤を含んだ現実の人間関係へと踏み込んでいく内容で(くわしくは冊子『づら研やってます。』参照)、後半は、会場からもたくさんの声があがりました。
 
少し上の世代からは「わざわざ生きづらさを考えるよりも、趣味をもって楽しい時間を持ったほうが生きづらさをしのげるのでは」「正直、何が生きづらいのか伝わりにくい」という声もありましたが、いまの若者の生きづらさというのは、社会が流動化するなかで、自分でもつかみにくい、それゆえに声もあげにくい、もやもやとした生きづらさなのだろうと思います。それだけに、生きづらさをカミングアウトして、共有できる機会というのは大事だなと、あらためて思いました。いわば生きづらさのデトックス。会場からは、いろんな生きづらさが語られて、笑いとともにエネルギーが渦巻いていくのを感じました。
 
生きづらさというのは、荒ぶる魂みたいなもので、出てきた当初は暴れることもあるでしょう。でも、そこで引っ込めるのではなく、多少の迷惑はかけつつも出しあっていくことで、昇華されていくのだろうと思います。ちなみに、昇華されたエネルギーで勢いがある状態を「ちはやぶる」というそうですね(つい先日、眠れない夜に見た深夜アニメ「ちはやふる」で知りました)。
 
お世話になったYCスタジオのみなさん、とりわけ代表の木村衣月子さんに感謝です。昨年7月に出した冊子で、づら研「出前します」と書いたら、わずかの期間に神戸、姫路、松江と3カ所からお声かけいただきました。出会いの機会をいただいて、ありがたいかぎりです。今後も、行けるときに行けるメンバーが出向きますので、よかったら、お声かけください。

づら研、バカボンのパパ、名なし

先日のづら研では、私がレポートを書いた。タイトルは「バカボンのパパになりたくて」。レポートそのものをここに載せるのは差し控えたいが、私がなぜ不登校やひきこもりに関わり続けてきたのか、自分にも参加者にもなるべく嘘のないように書いたつもりだ。ここに書いておきたいのは、先日のづら研のあとに、つらつら考えたこと。
 
バカボンのパパには名前がない。バカボンのパパという関係で名指されるだけで、41歳で無職(アニメ版では植木職人だが、赤塚不二夫の本意ではなかったらしい)、社会的な位置づけもない。バカボンのパパは、名なしのままを生きている。
 
不登校というのは、いわば名前のない状態になることだろう。世間は、名前のないものをそのままにはしておかない。○○障害、○○病、○○症などなど、何かと名前をつけては治療なり矯正なり教育なり支援なりしようと、とにかく放っておいてはくれない。カフカはそれを“虫”と表現したが、“虫”は家族に殺されてしまう。不登校でも家族に殺されてしまう場合があるが、殺されないまでも、世間の名づけと“自分”にはズレがあり、非対称な力関係がある。
 
べてるの家の当事者研究のように、その名づけを逆手にとって、自分で自分に病名をつけてしまうというのも、ひとつの戦略だろう。それでも、たぶん名づけたとたんにズレてしまうもの、はみ出してしまうものはあるにちがいない。
 
バカボンのパパがすごいのは、下世話な欲望を抱えたまま、名なしのままをひょうひょうと生きていることだ。学歴とか肩書きとかに縛られている世間を、バカボンのパパはアナーキーに笑いとばしている。だから、あこがれてしまうんだな、きっと。
 
先日のづら研では、どうも、このあたりのことがうまく話せなくて、空疎に言葉を重ねてしまった。つくづく自分の未熟さを痛感したけれども、実際、未熟なのだから仕方ない。これで、いいのだ。

貴戸理恵×山下耕平 対談

taidan.jpgづら研冊子と同時発売、というつもりでもなかったんですが、づら研でコーディネーターをしていただいている、貴戸理恵さんと山下との対談をアップしました。
 
テーマは「不登校は終わったのか?」。不登校を歴史的にふり返り、貴戸さんのデビュー作『不登校は終わらない』を再考しながら、今後を展望する内容となってます。づら研冊子といっしょに注文できるようになってますし(頒価200円/送料80円)、こちらも版下データは無償でダウンロードできます。
 
 

 
カンパ歓迎!
▼郵便振替口座
口座番号:00900-1-25564
加入者名:フォロ
 
※づら研カンパと明記してください。

づら研冊子出来!

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昨年から、社会学者の貴戸理恵さんをコーディネーターに迎えて始めている“づら研”こと、生きづらさからの当事者研究会のレポート冊子ができた。開始から1年の参加者のレポートを収載。
頒価300円
送料80円(10冊以上で送料無料)
下記から注文できるほか、版下データは無償でダウンロードできる(カンパ歓迎)。
 
→申し込みフォーマットへ

→版下データ(pdf)


カンパ歓迎!
▼郵便振替口座
口座番号:00900-1-25564
加入者名:フォロ
※づら研カンパと明記してください。
 

 
紹介をかねて、私が冊子に寄せた文章を以下に転載しておきたい。
 
「生きづらい」というのは、ちょっと考えると変な物言いだ。カネがないとか、仕事がないとか、食うものがないとか、住まいに困ってるとか、そういうつらさなら、具体的でわかりやすい。「生きるのがつらい」って、何がつらいというのだろう? よく、わからない。たぶん、ほかに表現のしようのない、モヤモヤとした苦しさが、そこにはあるのだと思う。言葉にしがたい、つかまえにくい、それだけに苦しく、人とも分かち合いにくい生きづらさ。それは、ムカツキや暴力のかたちでしか出せないこともあって(私は、それを“お化け”と呼んでる)、身近なところでも、関係が壊れてしまったり、自分を傷つけてしまったり、そういう場面にときどき出会う。生きづらさゆえに、自他を傷つけてしまうのではなく、生きづらさからこそ、関係をつむいでいくことができないか。安直な救いを求めるのでもなく、暴発させてしまうのでもなく、言語化し、共有し、信頼を回復していく営み。その試行錯誤。づら研は、そうした試みのひとつだと言えるだろう。
 
1年間やってきて感じているのは、みなさん、ものすごく自分のナイーブな部分を表出してくるので、どぎまぎする、ということだ。づら研の作法に、「他者の表出はていねいに扱うべし」「おためごかしは無用のこと」とある。生きづらさというのは、自分の痛い部分、やわらかな、ナイーブな部分が表出されるわけだから、それはていねいに扱わないといけない。かといって、あたりさわりのない態度で「傾聴」しているふりをするのでもなく、自分の価値観で相手を導こうとしたりするのでもなく、その表出に向き合うこと。それには、とってもデリケートな手つきが必要だ。かならずしも、その通りにできてはいないし、何より私自身、反省することが多いが、どぎまぎしながらも、その手触りには、たしかなものを感じている。
 それと、もうひとつどぎまぎするのは、まだ私自身はレポートを出していない、ということだ。貴戸さんも私も、ひとりの参加者として、いずれは自分のレポートを書く予定にしている。当たり前のことだが、上っ面なものは書けない。でも、年齢を重ねたぶん、面の皮が厚くなってしまっているところがあって、その皮をはぐのは、正直、ちょっと気後れするのだ。それと、「ていねいに」と言いつつ、おまえこそ乱暴に扱ってきやがってと恨んでいる人も多々いると思うので、まあ、私の番がまわってきたら、どうぞ煮て食うなり焼いてくうなり、吐き捨てるなりしてくださいと、覚悟だけはしておこう……。
 
づら研を開いているからといって、生きづらさがなくなるわけではない。それどころか、フタを開けてしまったがゆえに、自分でも思わぬお化けが出てきてびっくりすることもあるだろう。ときに、傷ついてしまったり、傷つけてしまうこともあるだろう。でも、「蓮の花は泥沼に咲く」との喩えもある。生きづらさ渦巻くお化け沼に咲く花は、きっときれいだ。

ジェンダー、恋愛、承認etc...

今日のづら研は、ジェンダーがテーマだった。前半、貴戸理恵さんに講義をしてもらって、後半は男女別で話し合った。前半の講義は、近代家族論に始まり、恋愛というものが、いかに近代に形づくられてきた価値観かということを示していただいたように思う(ざっくりしすぎているが、ご容赦を)。その講義を受けて後半、男性部会のほうは、おもに「承認」をめぐる話となった。異性に求める承認と、同性に求める承認がちがっているのはなぜか? 異性に何を求めているのか?

「同性との関係は、いわば戦場における戦友のような感じ。異性に求めるのは、戦場から帰ってきた自分を癒してもらいたいという感じ」「ほんとうは母親から認めてほしかったという思いが根っこにある」「異性に承認してほしいという気持ちは、ややもすると際限ないものになってしまい、危険だと思うことがある」といった率直な声があった。話し合うなかで出てきたのは、承認してほしいと求めてばかりいても関係は成立しないし、せっかくの関係が破綻してしまうことも多い、ということだった。
 
野宿者支援の活動をしているAさんは「野宿者のなかには、誰からも承認されず、アルコールやギャンブルに依存している人も多い。人は承認がないと生きていけないのだと思う」と話していた。野宿者にかぎらず、自分の存在が受けとめられていないという不安から、いろんな依存症は生じていると言えるのだろう。
 
Aさんは、また次のようなことを語っていた。
「だから、偽物とわかっていても、二次元や恋愛ゲームでも愛を求めてしまう。野菜から栄養を摂るのがほんとうでも、栄養がないと死んでしまうからサプリメントを飲むみたいに。でも、野菜にはほんとうは苦みもあって、苦さもあるのが愛なんだろうけれども、サプリには苦みがない。苦みを受けいれることが大事なのに、人間関係において、そういうことがなくなってきているように思う」
 
言い得て妙だなと思った。たぶん、相手が人間なのに、サプリ扱いしてはいけない、ということでもあるだろう。女性部会の声はちゃんと聞けていないが「サプリ扱いするな!」という経験を持つ女性は多いような気がする……。最後におたがいの報告をした際には、女性から「異性としてではなく人間と人間として関係したいのに……」という声もあった。
 
今回の話の流れから、次回は、承認をテーマに、Aさん含む男性2人にレポートしてもらうことになった。その後、女性からも同じテーマでレポートしてもらったらよいのではということになっている。
 
※参加者のなかには「自分は異性でも同性でも極端には変わらない」と話していた人もいて、男性/女性というのは、簡単に引ける分割線では本来ないだろう。



 

づら研で思ったこと―ひげ面の万年一等兵

メンバーのひとりから、「実際問題、あなた自身はどうなんだ?」というような問いかけをもらった。
 
私自身の現状を言えば、NPO活動を続けてきた結果、“NPOプア”状態で、NPO活動だけでは食べていけないので、34歳から年長フリーターに参入し、つい最近までバイトしながら食いつないできた(最近、引っ越しのためバイトは辞めたところ)。
 
いわば半身でカネを稼ぎ(しかし低賃金!)、半身でNPO、部分的に魂を売りながら、なんとか活動を続けているというのが、正直なところだ。それで継続的に身が持つのかといえば、はなはだ疑問だが、居直って言えば、それが成り立たないような社会はおかしいのだ。
 
鶴見俊輔が、何かの著書で、「ひげ面の兵隊は信じられる」というようなことを書いていた。戦争目的を疑うことなく信じている若いエリートが一番危なくて、年輩でひげ面の、厭戦的でやる気のない万年一等兵とかが、いちばん信じられる。徴兵自体は避けられず、いやおうなく戦争に巻き込まれたなかで、半身で身を処して生き抜いている。そういう人は、やみくもに人を殴ったりしない。たしか、そんな話だった。
 
私もたぶん、ひげ面の万年一等兵だ(ひげは生やしてないけど)。バイトなどをしていると、そういう人に出会ったりすることもある。空間自体は“戦場”でも、そこに生きているのは人だ。戦争関係ではない人間関係は、細くても結びうる。そんなふうに思う。
 
いやおうなく巻き込まれながらも、半身でズラしつつ、戦場ではない世界を想像し、つむいでいく。自分のスタンスを問われるなら、そういうことになるだろうか。いささか、きれいに言い過ぎてはいるけれども……。
 

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なるにわ
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自己紹介:
「なにものか」でなくともよい場所、なるにわ(NPO法人フォロが開いてます)。毎週土曜日の午後にサロンを開いているほか、づら研(生きづらさからの当事者研究会/月に1回)、終末ティータイム、冊子『もじにわ』刊行、なるにわラジオ配信などの活動をしています。ブログは、おもにコーディネーターの山下耕平が書いています。

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