忍者ブログ

なるにわ ぶろぐ

「なにものか」でなくともよい場所、なるにわのブログです。
なるにわの活動、づら研などについて
おもに、コーディネーターの山下耕平が書いてます。

© NPO法人フォロ

   
カテゴリー「サロン」の記事一覧

コミュニケーションギャップ

先日のサロンで、コミュニケーションギャップについて話し合った。たとえば地域(関西と関東etc)、性、世代などによって、常識や文化は異なる。そのギャップによって、誤解が生まれたり、人を傷つけたり、逆に発見があったりする。そういうギャップについて、それぞれの体験を出し合って、話し合いをしたのだが、なかなかおもしろかった。

つまるところ、そのギャップをギャップのまま認め合うことができればよいのだが、得てして多数派の常識や文化によって、少数派は異端視されたり、同質化を迫られたりしてしまう。不登校やひきこもりというのも、その最たるものの一つだろう。カワイソウなことだったり、ケシカランことだったり、無理やり学校に戻されたり、自立訓練させられる対象だったり、あるいは特殊な才能とか感受性豊かな人として、特別視されてしまう。どっちにしても、多数派は自分たちの常識や文化を問い直すことはない。

お笑いのネタなんかで、「ニート」や「ひきこもり」が出てくることもままあるが、それにひどく傷つくという話も出された。同性愛なんかの場合でも、昔から「ホモ」は笑いのネタになってきた。おそらく、こういう多数派の無自覚(?)な暴力がなくなることはないのかもしれない。いつでも、少数派は抑圧されてきたにちがいない。そして、多数派と異なる自分のほうがおかしいのだと思いこまされてしまったりする。しかし、そんなことを言いつつも、私自身、鈍感になっていることがたくさんあることだろう。それだけに、ギャップは大事だ。自分の鈍感さに気づく機会になるのだから。

ギャップは、あたりまえと思ってきたことを問い直し、新しい見方や文化を生み出す機会になりうる。それは痛みをともなう作業かもしれないが、くりかえし、くりかえし、そういう作業が必要なのだろう。そんなふうに思う。


愛について

先々週のサロンは、「愛」をテーマに話し合った。メンバーのTさんからの発題で、あまりに大きなテーマで、話し合うのも難しい面があったが、親子・兄弟など家族の愛から、恋愛、嫉妬、友人、ペット、キリストの愛にいたるまで、じつにさまざまな「愛」が語られた。

大ざっぱにまとめてしまえば、愛を感じるときというのは、自分が受けいれられているときで、逆に愛するというのも、その人の存在を受けとめることなのかなと思った。その受けとめ方には、恋愛としての場合もあれば、家族としての場合もある。より広く共同体としての愛もあるし、極限までいけば、イエスの愛のような普遍的な愛もあり得るのだろう。

凡夫たる私たちは、まず自分が愛されていないと、他者を受けいれることもしがたい。“汝の敵を愛せよ”なんて、すげえな~とは思うが、やっぱり超越的だなと思ってしまう。

いまの人間関係が苦しいとしたら、それは、人を受けいれ合うよりも、値踏みし合ってしまっているからなのではないかと思う。人を受けいれるというのは、その人のダメな部分、できない部分を受けいれることなんだろう。ところが、私自身を含め、多くの人が、人のことを仕事や勉強ができるかどうかとか、外見とか、そういう視線で値踏みしているし、自分自身のことも、人との比較で何ができるかで自己評価していたりする。仮にそれで得られた愛があっても、それは不安に満ちた関係しか生み出さないだろう。

たぶん、人のありのままを受けいれようとするなら、何より自分自身のありのままを受けいれることが必要なんだろう。人を値踏みせず、おたがいをゆるやかに受けいれ合うこと。そういう関係の場の試みのひとつとして、コムニタス・フォロもやっていきたいなと思う。

サロンのルール

ちょっと前に、メンバーからサロンのあり方について意見が出されて、何回か話し合って、サロンのルールを決めた(下記)。あんまりシャチホコばったルールがあっても堅苦しくなっていけないが、明文化されたルールがあると、かえって風通しがよくなるような気がした。これからも、折をみて考え合いながら、この場をつづけていきたいと思う。


●サロンのルール

・サロンは、参加者が安心して話せる場であることを大事にしています。

・サロンへの参加は自由です。たとえば、途中参加・退出もできます。

・サロンで出された話については、基本的に、その場での話にとどめましょう。とくにプライバシーにかかわることを外部に漏らしたり、他の目的に利用するようなことはしないでください。

・他者の発言に対しては、批判をすることはあっても、否定はしないよう配慮しましょう。

・質問などされた場合でも、自分が答えたくないことは答えなくてもかまいません。

・不快な発言があったときは、その場で、あるいは事後に異議を唱えることができます。サロンで話し合うことがふさわしくない場合は、コーディネーターがあいだに入るなどして、当事者間で話し合うこともできます。

・このルールは、適宜、見直すことができます。見直しは、サロンでの話し合いによって決めることとします。


ムダ、ええ加減、さざめき

先だってのサロンでは、「ムダ」をテーマに話し合った。森毅さんが「ムダの貯金が人生をつくるんやで」とおっしゃっていたインタビュー記事(『この人が語る「不登校」』所収)を読み合ったりして、それこそムダにたくさん、おしゃべりした。

森さんは、「人工の世界では、こうすればこうなると予測できる。しかし自然というのはいろいろで、かならずしもそうはならない。いまの人は世界が人工水路のイメージになっていて、“岩があったら乗り越えなければいけない”とか言う人もおるけど、20m先に行ったら同じこっちゃね。どないなってもなんとかなるで」などと語っていた。

こういう、ええ加減さは、なんともいい。いまの社会の苦しさは、ムダを排除して、ええ加減さを失ったところから来ているにちがいない。

よく「コムニタス・フォロは何を目的にしているんですか?」と聞かれると、返答に窮してしまうことがある。開設当初は、メンバーからも「何を目的に集まっているんですか!」と、いらだたしげに問いつめられたこともあった。そういうときは、ちょっと口ごもりながら「世の中が目的だらけになったから、無目的にいられる場所をつくりたかった」なんて答えてきた。

目的にしばられている頭をちょっとストップして、自然の流れみたいなものに身をまかせると、すごく豊かなさざめきみたいなものが感じられる。それは、コトバやリクツになりにくいし、ましてやおカネにはならないものだ。コムニタス・フォロは、そういうさざめきに共鳴しながら、やっていきたいと思っている。


家族って何だろう?

家族って何だろう?
先週のサロンでは、そんな問いかけがあった。家族を失ってしまうことの不安が語られたり、あるいは、いろんな事情から、家族としての意識を持てないという話が出されたり、親子関係にしても、兄弟関係にしても、家族のあり方や関係は、ほんとうにさまざまだ。

自分自身のことを考えてみる。いま現在、家族というと、6歳の子どももいるので、私のつれあいと子どもとの3人の共同生活のことが、まず浮かぶ。しかし、つれあいと二人の生活のときは、家族という感覚などカケラもなかった。ちなみに私たちは入籍もしていなければ結婚式なども挙げていない。
しかし子どもが生まれてからは、なんだか生活感が一変した。つれあいとの関係も、自分自身の生活スタイルも、ずいぶん変わった。それまでは、つれあいと同居しているといっても、わりと個人どうしが時間を共有しているという感じで、生活を共有しているという感じではなかった。ところが子どもが生まれてからは、生活を丸ごと共有するようになった。その共有した時間、空間、思いが、家族を形成しているのだろう。

私の場合、男性だからなのか、子どもができたといっても、実際に生まれてくるまでは、ほんとうに実感が薄かった。女性は、自分自身の身体のなかに生命が宿るわけだし、つわりがあったり、お腹が大きくなったり、そして全身をかけて出産するわけで、私は、そういう動物的なつながりが、ちょっとうらやましかったりした。生まれてきてからも、赤ん坊のころの母子のつながりには、ちょっと疎外感を感じるくらい、濃密なものがあったように思う。それだけに母親はたいへんだと思うが。
でも、月日が経つにつれ、私と子どもとの関わりは深まり、「家族」という関係ができてきた。母子の濃密で閉じた関係が開かれていって、父親だとか周囲の人間との関わりができて、それが家族というものになるのだろう。そういう実感からすると、家族は血縁じゃない。共有した時間や空間や思いだ。それをもっと拡げて考えることも可能なように思う。
そういう拡がりの可能性について、またサロンでおしゃべりできればと思っている。


いじめ、ガンジー、非暴力

先週の「映画のじかん」では、『ガンジー』を観た。その後のサロンでも、非暴力・不服従をひとつのテーマとして話し合った。
サロンでは、自分が身近に受けた暴力として、いじめの話が多く出された。そのなかで、世代によって、暴力の質にちがいがあることがうかがわれた。私と同じ世代(30代半ば)ぐらいだと、文字通り肉体的な暴力も経験している。それに対して、20代半ば以下の参加者たちは、もっと目に見えにくい暴力を受けている。それは言葉の暴力だったり、シカトだったり、より内面的で陰湿な暴力といったらよいか。もちろん今の子どもたちだって、肉体的な暴力を受けることは多々あるだろうが、なんだか時代の空気として、暴力の質は変わっているような印象を受ける。

見えやすい暴力が支配していた時代は、対抗する側も暴力的だった。ガンジーは、そこに非暴力の思想を説き、実践した。ところが、いまの日本のように、すみずみまでシステム化された社会のなかでは、暴力は内面化されている。透明な暴力に包まれているといったらいいだろうか。だから、外に向かって暴発するときには、対象のないムカツキになってしまう。それが、さらに不安や恐怖をよんで、ますます透明な暴力性を強め、管理をすみずみにまでめぐらそうと躍起になっている。

ガンジーは、こんなことも言っていた。
「富の所有によって得られるよろこびは錯覚です。金や所有への執着は恐怖の産物なのです。暴力や不正直が恐怖のあらわれであるように、金や所有に執着するのも、すべて恐怖から来るのです」
「肉体が滅びることで、魂が解き放たれるのであるから、死は決して恐れることではない。ただし、この世に生を受け、手足を授けられた以上、命のあるかぎり手足を最大限に使って奉仕するのが我々の生きる道である」

きっと私たちは、私利にとらわれすぎて、不安や恐怖を極限まで肥大させてきたのだ。そうであるかぎり、この不安や恐怖から逃れることはできないし、暴力は、ますます肥大していくにちがいない。まずは、自分のなかの不安や恐怖をよく見つめることからしか、始まらないのだと思う。


垂直軸と水平の広がり

daibutu.jpg先週土曜日のサロンでは、親世代との価値観のギャップなどを話し合った。一昔前までは通じた価値観が崩壊していて、親世代も不安のなかにいるのに、逆にそれゆえか、「こうしておけば大丈夫」という規範のなかに若者を閉じこめておこうとする。大学進学率がいまだに伸びつつけているのも、その一例だろう。しかし、その虚しさは肥大していくばかり。
アドヴァイザーの本田由紀さんは、こういう状況のなかで、若者が苦しいのは当たり前で、状況こそを変えていかなければいけないと説いている。そして、若者たちのあいだで、NPOや労働組合をつくるなど、新しい試みが現れてきていることに触れ、それらに共通するのは、垂直軸(目標や手段)と水平の広がりを持っていることだと書いていた(3/26朝日新聞「時流公論」)。

水平の広がりというのは、イメージしやすい。コムニタス・フォロも、その試みの一つだし、いろんなかたちで、関係を豊かにつむいでいくことは、どうしても必要な土壌だろう。しかし、垂直軸というのは、なかなか難しい。無理に目標を立てたって、逆に自分を苦しめてしまう。垂直軸というのは、試行錯誤しながら、だんだんに練っていくものだと思う。ときに人間関係を断って、孤独に自分を見つめるなかで。ときに、さまざまな出会いのなかで。問題は、そういう軸を練る時間や空間が許されず、いたずらにかたちばかり目標を求められることだろう。

この日は、その後、チラシ寿司をつくって、みんなで食べた。写真は、本文とは関係ないが、サロンのひとこま。

パスタ

pasta.jpg先週のサロンでは、パスタをつくって食べた。前回の元ラーメン屋Tさんの本格ラーメンには及ばないが、なかなか、おいしくできた。
ゼロ期のサロンは、先週でおしまい。31日はお休みで、次は4月7日~いよいよ第1期スタートとなる。会員は随時募集しているので、お気軽にお問い合わせを。

それから、4月2日にお花見をすることにした。13時にフォロに集合。大阪城公園にて。会費はとらないが、飲食費は実費。雨天中止。一度、コムニタスの雰囲気を見てみたい方、メンバーの顔ぶれを知りたい方など、どなたでもご参加ください。

ゆるさが大事

今回のサロンは、少しマジメな話が多かった。アドヴァイザーからいただいたメッセージなどをもとに話しはじめ、働くことやお金を稼ぐこと、親との関係、精神医療のこと、「障害」とは何か、などなど、話題はあちこちに飛びながら、話し合った。そのなかで、「周囲とズレたからこそ見えてきたことがある。しかしズレたからこそ不安なこともある」といった話があった。実際、周囲とズレて生きることは不安だ。「みんなといっしょ」と思えるところで生きているほうがラクにちがいない。それが、浜田寿美男さんの言うように錯覚だとしても、錯覚のなかにいるほうがラクだとも言えるだろう。だけど、きっと錯覚であることはどこかで自覚されていて、多くの人は、その不安感を押し込めて、どこか怯えながら生きているようにも思える。それよりは、不安や葛藤を直視して「自分の一歩」を踏み出すことのほうが、結局は気持ちがよいはずだ。だから、森岡正博さんは「いま真っ暗で先がまったく見えないことこそが、崇高な人間の姿」だと言うのだろう。

ただ、そのとき、ゆるやかさが保たれているということは、大事なことではないかと思う。自分たちだけが正しくて社会はまちがっているといったストイックな立場をとってしまうと、閉塞的で骨ばった、とても貧しい関係しか生み出せなくなると思う。それは歴史的に、じゅうぶん証明されていると言えるだろう。だから、まどろっこしいようでも、ゆるやかであることは大切だ。

……ということで、ゆるい写真を2点ばかり。
dogs.JPGkatocha.jpg








(左)Iさん撮影。沖縄にて。
(右)山下撮影。大阪市内にて。

今回のサロンでは、途中、持ち寄った写真でコンテスト(?)をした。そこで選ばれた2点である。


Profile

HN:
なるにわ
HP:
性別:
非公開
自己紹介:
「なにものか」でなくともよい場所、なるにわ(NPO法人フォロが開いてます)。毎週土曜日の午後にサロンを開いているほか、づら研(生きづらさからの当事者研究会/月に1回)、終末ティータイム、冊子『もじにわ』刊行、なるにわラジオ配信などの活動をしています。ブログは、おもにコーディネーターの山下耕平が書いています。

Twitter

ブログ内検索

カレンダー

09 2017/10 11
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31

最新コメント

[04/06 鳥居]
[02/08 みやすけ]
[01/13 山下耕平]
[01/13 M]
[11/21 山下耕平]

QR Code

携帯からもアクセスできます。

AD

PR
Copyright ©  -- なるにわ ぶろぐ --  All Rights Reserved
Design by CriCri  / powered by NINJA TOOLS / 忍者ブログ / [PR]