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なるにわ ぶろぐ

「なにものか」でなくともよい場所、なるにわのブログです。
なるにわの活動、づら研などについて
おもに、コーディネーターの山下耕平が書いてます。

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カテゴリー「サロン」の記事一覧

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本格ラーメン!

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今日のサロンでは、元ラーメン屋さんのTさんが、ラーメンとチャーハンをつくってくださって、みんなでいただいた。
午後3時ごろから、仕込みに入る。まず鶏ガラをあく抜きして、タマネギ、白ネギ、干し椎茸、昆布、ミンチ肉、しょうが、セロリなどを、コトコトと煮ること3時間。ときどき鍋をのぞいたりしながら、次第に立ってくるスープのよい香りを嗅ぎながら、まったりとおしゃべりしながら過ごした。しかし、話は上の空。ほとんど意識は鍋に行っている。コトコトと時間も経っていく。ひたすら食べるのを待つ時間というのも、ふだんはなかなかない。

……途中でチャーシューができあがる。あまりのいい匂いに、それだけでも食べたくなってしまう。やがて、スーchashu.JPGプのできるころになると、にわかに慌ただしくなった。チャーハンをつくり、麺をゆで、スープをどんぶりに入れ、ゆであがった麺を入れて、もやしやチャーシューを盛りつけて、できあがり。「午後6時くらいから食べる段取りで」と話していたら、きっかり6時にできあがった。手際のよさに感心してしまう。しかし、まだ午後6時だというのに、すっかり空腹で、全身の気がラーメンに向かってる。
ラーメンは、おいしかった! ラーメンもチャーハンも、なんだか身に沁みておいしかった。食べているあいだは、みんな沈黙。ひたすら黙々と食べ続けていた。全員が食べ終わるまで、たった15分。食べるのはあっという間だ。ふつうにラーメン屋さんで食べても、こんなにはおいしくないだろう。Tさんの腕前はもちろんのこと、きっと過程ともども、おいしかったんだと思う。その後は、なんだか話し込んでしまって、気づけば夜も更けていた。
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先日のオトナの公園遊びについて、Kくんが「自分は身体で生きているんだと感じた」と話していたが、けっこうふだんは、身体で生きていることを忘れているなと思う。今回のラーメン企画も、ただ食べることを待ってたせいか、胃袋をずいぶん感じた。いや胃袋というのは正しくないか。ふだん何気なく食べているときとちがって、身体が食べ物を欲しているのを、すごく感じたのだ。これも、子どものときには、よくあった感覚のように思う。オトナはいつの間にか鈍化しているなと、つくづく思う。ちなみに、オトナの公園遊びの翌日、私は筋肉痛だった……。

ロストジェネレーション

昨日は、年明け最初のサロンだった。
コーヒーを生豆から焙煎して淹れて、お菓子をつまみながら、とりとめもなく、おしゃべりをして過ごした。
そのなかで、年初から朝日新聞で連載している「ロストジェネレーション」のことが話題になった。ロストジェネレーションというのは、現在25歳~35歳で、正規雇用から疎外されている世代のことを指しているようだ。
ちょうど年末年始のバイトで、コキ使われて疲れ切ったという人もいて、バイト先での経験や、雇い主との関係など、あれこれ話があった。そのなかで、「ロストジェネレーションとか、ワーキングプアという言葉が出てきて、いまの若者の置かれている現状について、若者個人の問題とみるのではなく、社会問題としてみる視点が、やっと出てきたように思う」という声があった。

ほんとうに、そのとおりだなと思う。同紙の連載は、なかなかおもしろい。非正規雇用で働く若者の現状について、多角的な視点から迫っている。だけど、若者をめぐる問題を、ある世代の「ロスト」としてだけ捉えるのでは、見えてこない面もあるだろうなと思う。
ほんとうは、一世代前につくられた社会システムが破綻していることが一番の問題だと、私は思う。それを、若者を犠牲にすることで、なんとか保たせようとしているのが、現状ではないだろうか。だとすれば、問題は、若者世代だけの問題ではすまない。破綻している現状をきちんと捉えて、別の道筋を模索していくことが、必要なのではないかと思う。そう考えたとき、「ロスト」であることが、逆に可能性になることだって、あり得るのではないか。まだ漠然とではあるが、そう思う。

来週のサロンでは、もう少し踏み込んで、働くことについて、考えてみたいと思う。

サンタクロースはいるのか?

IMG_4597.JPG今日のサロンでは、鍋を囲んだ。クリスマスにちなんで赤い鍋(韓国風)と白い鍋(和風)をしつらえ、鍋をつつきながら、歓談。なかなか、楽しかった。今日は、「サンタクロースはいるのか?」というテーマで話し合った。私は「サンタクロースはいる!」とマジメに主張した。

そもそも、クリスマスはキリスト教よりずっと古くからの、冬至の季節の祭だ。暗闇が支配し、死の影がもっとも濃くなるこの季節、世界各地で、人々は、贈り物を盛んにしあい、無礼講でハメをはずし、生命力を活性化させてきた。
サンタクロース的な存在は世界各地にいて、それは死の世界から人間世界に入り込み、自然の息吹を吹き込む存在だった。

日本でいえば、なんといってもナマハゲが一番に思い浮かぶ。自然の息吹を一身にまとったナマハゲたちが、家々に侵入し、子どもたちに対峙する。そして、家々では、そういう自然的な力をシャットアウトするのではなく、丁重にもてなし、「来年もまた来てください」と言って、送り返すのだ。なんて豊かな精神性かと思う。私たちは、死や闇を追い出そうとして、逆に生命を虚ろにしてしまっているにちがいない。
近年のサンタは、死の影をすっかり失って、商品のイメージキャラに成り下がってしまっている。しかし、それでも、この季節には、人々は贈り物をしたくてウズウズしてしまう。そこには、見えない力が働いている。その力こそがサンタだ。
しかし、贈り物には見返りを求めてはいけない。見返りを求めたとたん、それは下品な賄賂と化してしまうから。だから、サンタクロースは誰にもわからないようにやってきて、プレゼントを置いて去るのだ。

→参考にした本:『サンタクロースの秘密』(C・レヴィストロース、中沢新一)
          『クリスマス―どうやって日本に定着したか』(クラウス・クラハト、克美・タテノクラハト)など。

タコヤキ・裁判・死刑・戦争……

061209takoyaki.JPG今日のサロンでは、タコヤキをつくって食べた。関東出身の私は、タコヤキづくり初体験で、クルクル回すのが、なんとも楽しかった。
念のために言っておくと、大阪人(関西人?)がタコヤキ器を一家に一台持っているというのは事実だ。さらに、タコヤキを夕食にするというのも、大阪ではめずらしくはないようで、今日のタコヤキを提案したMくんは、昨晩も二人で60個、食べたそうだ。
しかし、何より私が思い知ったのは、「タコヤキ屋さんは偉大だ!」ということだ。自分でつくろうと思うと、なかなか丸くはならないし、外はパリッと中はトロッと、というわけにはいかない。それを手際よく、いつでも注文に応じてつくれるタコヤキ屋さんは偉大だと、つくづく感心してしまった。

タコヤキを食べたあとは、ミーティングを開き、その後、裁判について、話し合った(最近、続けて傍聴に行ったので)。いろいろに話し合ったのだが、途中から、話題は死刑の問題になった。「人を殺すことは違法なのに、死刑ならよいのか」「目的が正当なら人殺しを認めてもよいというなら、戦争肯定にもなるのではないか」「しかし、自分の身内が殺されて、加害者がやり直し可能な人生を歩むのは許せない」「裁判では何を裁くのか」などなど……。
「裁判というのは、結局は、社会秩序を維持するために人間がつくりだした仕組みにすぎないのであって、本質的な裁きとなると、宗教の領域の問題になるのではないか」と、私は話した。それに対しては、「そうなると価値観の問題だから、人さまざまだ」という意見や、「神にまかせるとかじゃなくて、自分たちで決めたことで納得したい」など、いろいろ意見があって、考えさせられた。
その後、話は戦争の問題や、マスコミの情報の流し方の問題(とくに北朝鮮についての報道)にもわたった。

今日は、タコヤキに始まり、戦争の話題で終わる、なかなか味わい深いサロンの日だった。


インドカレー・パーティ♪

今日のサロンでは、インドカレー・パーティを開いた。
カレーは、チキンカレーとムング豆カレーの2種類。
ご飯は、無農薬の白米と発芽玄米(自宅で発芽させたもの)。
それに、ナンを生地からつくって焼いた。
部屋には、インドのお香をガンガンに炊いて、
インターネットで、インド音楽を流して、さながらプチインド状態。
なかなか、心地よく過ごせた。

料理や食事をともにするというのは、とてもいいものだと思う。
きっと、人が食べ物に意識を向けているときには、何か発しているモノがあるのだ。
つい先日、ある中学生の女の子が、こんなことを話してくれた。
「学校に行かなくなって、時間が自由になったぶん、自分があいまいになってしまって、すごく不安定だった。それが、ご飯をつくっていると、“生きている”って感じがした。自分が明確になって、安定できたように思う」

物事を「モノ」と「コト」に分けるとすると、いまの社会では、モノとの関わりをなくして、コトと関わることばかりが多くなっている。モノとの関わりは、お金で誰かにやってもらってしまっても、すんでしまう。でも、モノと切れた生活は、けっこう不安なものにちがいない。多くの人が感じている不安は、たぶん、そういうことだ。
もっと言えば、モノというのは、たんなる物質じゃなくて、モノノケのモノでもある。
居場所には、きっとモノノケが住んでいる。
(やました)


居場所

今日はサロンの日だった。
まだ、どこかギコチなさがあるが(何より私自身に)、だんだん居場所としての空気が、醸成されてきているように感じている。

今日の後半部分では、芹沢俊介さんの『「新しい家族」のつくりかた』をネタにしながら、話し合った。
養護施設などで、入所当初は過食になったり、刺激の多い味にしか反応できなくなっている子どもが、自分が「ある」「いる」ことを受けとめられていることを感じると、自然に過食がおさまってくるという。「ある」ことが受けとめられるというのは、何もしないでいいこと、いるだけで、そこにいる人との関係が感じられることだという。

いまの社会では、小さいころから、何かが「できる」ことで評価され、そういう視線が家庭にまで入り込んでいる。そうなると、「ダメな子ほどかわいい」のではなくて、「できる子ほどかわいい」になってしまう。それを芹沢俊介は「教育の魔」と呼んでいるが、そういう視線にさらされ続けていると、自分自身のことも、存在しているだけでいいとは思えずに、他人からの評価の視線(しかも薄っぺらな!)でしか自己確認できなくなってしまったりする。

自分のことを、何もできなくても、ただいるだけでもいい存在だと思えるには、おたがいに、そう思える関係や場が必要だ。居場所というのは、そういうものだと思う。

そんなことを話し合っていたら、自然と何かがゆるんできたのか、とても居心地のよい空気が流れていた。
自分をゆるめることができて、おたがいにゆるめ合える場であること。そういう場に、なっていけたらいいなと思っている。
(やました)


今後の活動について

 コムニタス・フォロは、10月7日にゼロ期をスタートして、これまでに3回、サロンを開きました。文字通りゼロ、白紙から始めているので、ほんとうに手探りで進んでいますが、そういう手探りの一つひとつが、大切だと思っています。
 以下、近況報告を兼ねて、今後の活動について、現在、決まっていることをお知らせします。


ゼロ期、始めました。

1007.jpg10月7日より、ゼロ期を開始しました。
今後、毎週土曜日にサロンを開くほか、企画に応じて、随時、活動していきます。
初回のサロンは、13名が参加。それぞれ自己紹介やコムニタスに来た動機などを話し合いましたが、初めての顔あわせとあって、私も緊張気味でした。
だんだん、ほぐれて、関係ができて、活動をつくっていけたらと考えています。

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なるにわ
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自己紹介:
「なにものか」でなくともよい場所、なるにわ(NPO法人フォロが開いてます)。毎週土曜日の午後にサロンを開いているほか、づら研(生きづらさからの当事者研究会/月に1回)、終末ティータイム、冊子『もじにわ』刊行、なるにわラジオ配信などの活動をしています。ブログは、おもにコーディネーターの山下耕平が書いています。

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