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なるにわ ぶろぐ

「なにものか」でなくともよい場所、なるにわのブログです。
なるにわの活動、づら研などについて
おもに、コーディネーターの山下耕平が書いてます。

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カテゴリー「雑記」の記事一覧

「生きづらさを武器に」鳥居さんインタビュー記事

以前、「生きづらさの祭典」でお話しいただいた鳥居さんへのインタビュー記事が、『Fonte』2/1号に掲載されました。私(山下)が聞き手で4時間ほどお話をうかがいました。ほんとうに過酷ななかを生きてこられたお話で、短い字数にまとめなくてはなりませんでしたが、まとめるのも苦しかったです。

広く知っていただきたい内容なので、ネット上でも公開してもらいました。ご感想など、お寄せください。


→『Fonte』記事へ

「いじめから逃げる」という言葉が届くには……

「自殺するくらいなら学校なんて行かなくていい」
「いじめられていたら逃げていいんだ」
「学校の外にも生きていく道はある」
 
こうした言葉は、ずいぶんくりかえし語られてきた。今回の大津市のいじめ自殺事件では、マスコミでもひんぱんに、こうした言葉を聞いた(私自身、そういう言葉で語った)。
それは「うつの人にがんばれと言ってはいけない」というのと同じような、ある種、常識化した認識になってきたとも言えるだろう。しかし、にもかかわらず、いじめで自殺に追い込まれたり、自殺までいかなくとも、学校を休むこともできず、苦しんでいる子どもは跡を絶たない。
 
私は1986年にいじめで自殺した鹿川裕史くんと同じ齢だ。当時、私自身、さまざまに暴力を受けていたが、事件がマスコミで大きく取り上げられていても、なぜ騒ぐのだろう、自殺くらいするじゃないか、と思っていたように記憶している。そのとき、上記のような言葉を耳にしても、リアリティのない言葉にしか聞こえなかったかもしれない。
 
学校に行かなかったら、その後の人生がないと思いこまされている。だから、学校から逃げることはできないし、いじめもエスカレートし、ときに被害者は自殺にまで追い込まれる。
学校を相対化することは切実に必要だ。しかし、問題は、どうしたら学校を相対化できるのか、だろう。学歴で人が選別され振り分けられ、ふるい落とされる状況をそのままにして、「学校に行かなくてもいい」と言ったところで、その言葉はなかなか届かないように思う。
 
また、そこで生じる「不利益」は自己責任でまかなえ、と言っているにひとしい。私たちもフリースクールを開いていて、学校外に子どもの居場所があることの意義はあると思っているが、その費用は親に負担してもらわざるを得ない。そういう矛盾、ジレンマがある。
 
では、たとえばオルタナティブ教育法ができて、フリースクールなどを選択できる制度になったら、学校を相対化できるだろうか? そんなことはない、と私は思う。むしろ、制度化することで、その選択はカッチリした硬直したものになってしまうように思う。フリースクールなどの居場所は、学校的価値からの撤退だからこそ、居場所になってきたのではないか。親の負担にしても、学校として認められたところで私学であるから、費用負担が減ることはないだろう(実際、特区学校となったフリースクールの費用は相当額だ)。多少、制度が柔軟化したところで、フリースクールが学校になってしまったら、かえって子どもが学校的価値から撤退することは難しくなるのではないか。
 
学校を相対化するためには、学校的価値を相対化することが必要だ。学校的価値というのは、人を学歴価値で商品化し、序列化している世間の価値尺度と言える。フリースクールで育つほうがいい商品になれますよ、というのでは、学校が多様化したとしても、学校的価値はかえって強化されるばかりだろう。
根本を言えば、学校だけではなく、社会の仕組みが変わらないといけない。しかし、社会の仕組みが簡単に変わることはない。では、学校的価値の相対化は無理なのかと言えば、そんなことはないと思う。それは、学校的価値からは無用とされるような人や場との出会いによって、なされるのだと思う。そして、それは一直線になされるのではなく、矛盾や葛藤のなかで、何度も揺れ動くなかで、少しずつなされていくことだろう。
 
微力だが、私たちは学校的価値からの逃げ場として、居場所を開いているつもりだ。いま、いじめに遭って逃げ場を失っている子どもには、まずはとにかく逃げてください、と呼びかけたい。そのうえで、もし出会うことがあったなら、私たちはその方の苦労をこそ、応援したい。

吉本隆明さんのお説教

吉本隆明さんが亡くなった。直接間接に、私たちの活動にも影響してきた人だと、あらためて思う。私なりにそれを一言で言えば、自分に立脚する、ということではないかと思う。国家のため、社会のため、理想のための自分ではなく、学歴や職歴など肩書きの自分でもなく、“内臓感覚”とか“アフリカ的段階”の自分。そのときどきの社会の風向きに自分を合わせるのではなく、むしろ、そこからズレてしまう自分の感覚に立って物事を考えること。それが吉本さんの徹底したスタンスだったのではないだろうか。
 
かつて、『不登校新聞』で吉本さんにインタビューをしたことがある。いくつか、引用したい。
 
・僕が大学1年生のとき、日本が敗戦しました。敗戦したとたん、就職口はなくなるし、学校自体も続くかどうかもわからない。社会ががらりと変わってしまった。(中略)今までやっていたことが通じなくなってしまったわけです。バカバカしいというか、とてもむなしかった。社会が変わるってことは、本当に、むなしくなるぐらい影響がある。敗戦までは、僕は社会についてなんて、まるで考えないできた。でも、それが大欠陥だったと思いました。それが、経済学とか経済現象といった、社会を動かしている基本にあるものを少し勉強しはじめた理由です。だから、正しいか、まちがっているかは別として、そのときどきに、社会に対して自分なりのビジョン、自分なりの判断をちゃんと持っていないとダメだぜ、ということは、敗戦以降、今にいたるまで、変わらずに頭に置いていることです。
 
・僕はいろんな社会現象に発言しているけど、ぜんぶ素人なんですよ。素人として、社会的な現象に対して、これをどう見たらいちばんいいのか、と考え、発言してきたのだけど、それでいいんだと思いますね。
 
・学問者や研究者と、僕みたいな物書きとどうちがうかというと、前者は頭と文献や書物があれば研究ができる。物書きは手を動かさないと作品が書けない。僕も手で考えてきた。頭だけで書いたらつまらないものしか出ない。考えたことでも、感じたことでも手を動かして書いていると、自分でもアッと思うことが出てくる。それは手でもって書いてないと出てこない。
 
・閉じこもりって、悪くないんじゃないですかね。それに、中途半端に引き出すのは、どう考えてもよくない。メディアは、閉じこもらないで、出ずっぱりで仕事をしたり、学校に行くのが一番いいことなんだ、という価値観で動いていますが、そんなのはウソですよ。だいたいの人間が1日のなかで、閉じこもっている時間がありますよ。
 
・重要なのは、いい学校に行くとか、いい会社に勤めるとかより、自分が経験したことを何回も何回も練り直して考えること。それをしなければ、人間の器は出てこないし、自分が持っている先入観にも気づかないと思います。
 
 
 
このインタビューに私自身は参加していないのだが(子どもたちだけで取材した)、その後、本にまとめるにあたって、吉本さんとやりとりをさせていただいたことがある。その際、電話で長時間、お説教をいただいたのだ。それは原稿内容についてではなくて、出版のスタンスについてだった。インタビューを収録させていただいたのは『この人が語る「不登校」』という本で、18名の方のインタビューを収録し、講談社から出版した。「著名人を集めて大手の出版社から本にして出すなんて、あんたら堕落してんじゃねえの? 誰の入れ知恵か知らんけど、そんな浅知恵でやってちゃダメだね」というようなお話だった(この件については、『ひきこもれ』に書かれている)。原稿収録については「使いたきゃ勝手に使いな」とおっしゃるので、引くに引けずそのまま収録させていただいたのだが、このときのお説教は、その後、深く私を自戒させた。
 
たしかに当時、不登校はマスコミにも注目されていたし、そういう風向きを利用したいという下心があったにちがいない。しかし、そういう風向きに合わせてしまうと、自分の足下を見失ってしまう。深く自戒を込めて言うが、不登校運動の言説には、そういう側面があったと思う。
 
たとえば、「学校に行かなくても社会でやっていける」という考えは、今となっては、こっぱみじんに砕いてしまったほうがいいと私は思う。それが一面の事実にちがいないとしても、子どもにとって学校がやっていけない場所となっているように、いまの社会は、多くの大人(とくに若者)にとってやっていけなくなっているのだから。“やっていけない”という側に立ち続けること、自分のなかの“やっていけない”という部分、世間とのズレに真摯であること。あらためて肝に銘じておきたい。
 
吉本さん、お説教ありがとうございました。合掌。

→吉本隆明さんインタビュー(不登校新聞社HP)

ご質問への返信

前回の記事にご質問をいただきました。コメント欄で返すには長くなりそうなので、新しい記事として書かせていただきます。
ご質問内容は下記のとおり。
 
山下さんは、フリースクール(や居場所)が制度的に社会に位置づくこと自体に反対なのでしょうか。あるいは、オルタナティブ教育法の根本思想が問題であるとしたら、どのような思想の制度であればよいと思ってらっしゃいますか。 
私は学習権もさることながら、特に金銭面でフリースクール(や居場所)が制度的に保障されることは必要だと思っています。「人が関係を結べる場であるべき」はずのフリースクールに在籍することにもお金がかかること、あるいはそういう場が良心的な人の努力によって維持されている状況は持続性という意味で問題があります。それは「人とつながる」ことにすら格差が生じてしまうということであるように思えます。 
制度保障は、不登校という「問い」について当事者がしっかりと向き合うためにも、必要なことだと思うのですがいかがでしょうか?
 

私自身、フォロの運営費や自分の収入源を含め、お金の問題にはいつも悩まされ続けているので、切実な問題です。受益者負担でよいのかという葛藤も当然あります。ただ、不登校というのは、そもそも制度から外れた問題のように思うんですね。学校教育という制度から外れ、障害者福祉などからも外れる、簡単には腑分けできない問題。それを教育制度に乗せようとすると、オルタナティブ教育法案のように、教育の成果を主張せざるを得なくなって、成功例をあげつらうようなことになってしまう。福祉として制度に乗せようとすると、障害種別の壁がある。そういうジレンマがあると思います。
 
私は、日本のフリースクールなどに求められてきた役割は“居場所”であって、教育機関としてはそんなに必要とされてないように思います。しかし、“居場所”なんて曖昧模糊としたものを公的に位置づけることは可能なのかどうか。
 
大づかみな妄想を言えば、学校をせめて半分くらいにして教育費を思いっきり縮減して、子どもが教育以外のことに時間も空間もお金も使えるようにするのがよいのだろうなと思います。たとえば子ども手当をもっと拡充して、その費用でフリースペース的なものがあちこちにできるようなことになればいいなあと思ったりします。居場所を制度的に位置づけるというよりも、居場所が自主的に成り立つような制度にするということですね。登校/不登校とか、学校/オルタナティブスクールとか、健常者/障害者という線引きの上に立った制度ではなくて。そうなると、ベーシックインカムの発想に近くなるのかもしれません。
 
3年前に書いた拙著『迷子の時代を生き抜くために』でも、このあたりの考えをある程度整理して書いているつもりなので、もしよろしければお読みください。言葉足らずですが、まずはご返信まで。

ハシズム、留年、オルタナティブ教育法案

尾木直樹の提案をもとに、橋下徹が小中学校でも留年させると言い出して、マスコミで騒がれた。とたんに尾木は、自分の提案とはちがう、自分は底上げをはかって言ったもので、橋下の切り捨てスタンスとは真逆だという。しかし、私はどっちにしても同じじゃないかと思う。
 
不登校新聞社のメーリングリストでも、ハシズムけしからんとの声があったが、オルタナティブ教育法案だとかいう発想と、この留年活用の発想は親和性が高いように思える。留年活用にかぎらない。新自由主義的な教育観とオルタナティブ教育観には、親和性があるのだ。たとえば維新の会の船中八策の骨子には、下記のような項目が並んでいる。
 
・教育行政制度について自治体の選択制
・大学も含めた教育バウチャー(クーポン)制度の導入
・生徒・保護者による学校選択の保障
 
新自由主義的な教育観とオルタナティブ教育観に親和性があること。オルタナティブ教育法案だとか言っているフリースクール関係者に、そういう自覚がまるでない。しかし、そのあたりをちゃんと考えないかぎり、フリースクールとかオルタナティブ教育なんて、まったくダメだと私は思う。
 
何が共通しているかといえば、これまでの一枚岩の学校制度を柔軟化し、流動化させようということである。新自由主義は、そこから能力主義の観点で有能な者を抜き出そうとし、オルタナティブ教育は、独自の教育観をそこから抜き出そうとしている。護送船団型の戦後教育をぶっ壊して、新しい教育制度をつくろうということだろう。一面では、それは必要なことだと私も思う。しかしそれは、不登校というかたちで子どもから出されてきたサインに応えるものではないだろう。
 
これまでの学校は、学校に来ない子どもを、なんとか学校に戻そうとしてきた。不登校運動は、それに対して、学校だけが学び育ちの場ではないとして、フリースクールなど学校外の居場所をつくってきた。たしかに、一枚岩の学校制度がしんどいのはたしかだろう。しかし一方で、学校に来ないならそれでけっこうと、放っておかれてしまうのもやりきれない。そういう相矛盾する両面感情が当事者にはあると思う。それはなぜなら、不登校という「問い」がなかったことにされてしまうからだ。
 
私は、不登校というのは簡単には腑分けできない「問い」だと感じてきた。学校を選択できるものにして、自分に合う教育を選べればそれで解決なんてものではない。私がオルタナティブ教育法案に反対しているのは、学校に行かない子でも社会でやっていけるというチープで上っ面な見方に立っているからだ。しかし、不登校という「問い」は、学校だけではなく社会のあり方をも問うているものだ。
 
学校というものが、自動車教習所のような、技能修得のための上っ面のものになってしまえば、留年だけではなくて、学校はもっと流動的で柔軟な制度であればよいと思う。そのぶん学校は縮小して、子どもの関係の場が時間的にも空間的にも、別に確保されればよいのだ。それは、能力主義とはまったく別の価値尺度で、人が関係を結べる場であるべきだろう。フリースクールなどは、そういう場としてあるのだと私は思っている。

お知らせ

1.引っ越しのお知らせ

現在、入居しているビルが取り壊されるため、3月に引っ越します!
といっても、ご近所です。現在の場所から徒歩10分ほど、最寄り駅は天満橋駅に変わります。
電話番号は変更ありません。

〒540ー0036
大阪市中央区船越町1-5-1 サンゼンハイツ1F
Tel: 06-6946-1507/FAX: 06-6946-1577
 
地下鉄谷町線「天満橋駅」4番出口徒歩3分
京阪「天満橋駅」徒歩5分

また、引っ越し記念にパーティーを開きます。よろしければ、いまフォロの入っている建物へのお別れに、遊びに来てください。
 
↓地図・パーティーの案内はこちら
http://www.foro.jp/info/information.html


2.次回のづら研

諸事情により、次回のづら研は、2月20日(月)13時~開きます。
ふだんは第1月曜日ですが、おまちがえのないように。
テーマは「承認」についてです。





就労支援? ひきこもり支援?

勝山実さんが、ベーシックインカムメールニュースに、「ひきこもりとBI」という記事を書いていた。これが秀逸だった。就労支援はそもそも発想がまちがっている。ひきこもり支援団体は国の助成を受けて、ゼネコンにたかる土建屋みたいになってしまっているetc...。
 
コムニタス・フォロは、就労支援を掲げていない。というか、支援のつもりもない。あえていうなら互助というところか。国や自治体の枠組みには乗っかっていないので、当然お金も落ちない。なのでお金には、はなはだ困っている。でも、筋は曲げたくないと思って、高楊枝くわえてふんばっている。
 
そもそも、就労支援というのは、新自由主義の産物だ。それまでの社会福祉=ウェルフェアを削減して、就労して自己責任でがんばる人のみを支援する。それをワークフェアというらしい。ところが、就労支援団体の人と話をしても、そういうことを驚くほど知らない。行政の枠組みがあるからというだけで、安易にその枠組みに乗っかって支援しているつもりのところが、とても多いように思えてならない。なかには、最近になって「就労支援」の看板を下ろしたところもあるようだが、それはまっとうな判断だろう。
 
ひきこもり支援=就労支援になっているのも、おかしなことだ。私のようなひねくれ者は、ひきこもりを支援しているという人に出会うと、「ひきこもり支援というのなら、ひきこもることを支援すべきじゃないですか?」と聞いてしまう。無理解な親や周囲を説得し、働けという圧力を減らし、とことん自分と向き合う時間を保障するような支援。しかし、ほとんどのひきこもり支援というのは、その逆をやっているように思える。
 
あるいは、家以外でも世間の価値尺度からひきこもれる場があればいいのだ。コムニタス・フォロは、ささやかながら、そういう場としてやっているつもりだ。もちろん世間と隔絶しては生きていけないけれども、少なくともいったんは撤退して、自分と向き合う時間や場は必要だ。そのうえで、世間の価値とどのように折り合いをつけられるのか。それは、人によってさまざまだろう。勝山さんのように、「ひきこもり名人」という生き方もある。
 
ただ、勝山さんの記事に一抹の疑問を覚えたのは、「ひきこもりのことは、ひきこもりが一番よくわかっている」という箇所だ。勝山さんは、ベーシックインカムが導入されれば、国の助成金に頼った支援ではなく、本人が自分のお金で、自身が生き延びるために必要な支援を選び、支持できると言う。それは、一面ではその通りだと思う。そうなってくれれば、私たちも、もう少し財政的にやっていけるように思う。でも、ひきこもっている本人自身が、就労支援や長田塾や戸塚ヨットスクールのような「支援」を望んでしまう場合も多々あるように思う。なぜなら、本人自身が世間の価値観を深く内面化してしまっているから。だから、あえて言うなら、本人や親の要望とはちがっていても、世間の価値観とはちがう場や関係が必要なんだと私は思う。すぐには支持されなくても、吹けば飛びそうな少数派でも、そういう場や関係の力を信じたい。

「自立」について

このところ、「自立」や「生きづらさ」をテーマとしたシンポジウムなどに呼ばれることがいくつかあった。
いろんな方と、おしゃべりするなかで、考えることがいろいろあるのだが、このブログも更新をだいぶサボっているので、少しずつブログに書き込みながら、考えを整理できたらなと思っている。

まずは、先日、社会臨床学会のシンポに呼んでいただいた際、話題提供に書いた短文を掲載したい。

…………………………………………………………………………………………………………

若者の「自立支援」というとき、それを言う人は何を「自立」と考えているのだろう? せいぜいが就労させるくらいのことで、その先までは考えてなさそうだ。しかし、よく言われるように、就労したとしても、非正規雇用では極度に不安定で、逆に正社員は過剰労働だったりして、いずれにしても過酷な労働環境がある。

そういう問題はおくとしても、たとえば正社員で会社に勤め、経済的には親に依存しなくなった人は、そのかわりに会社に全面的に依存しているとも言える。あるいは家事を全面的に家族に依存していたりする。お金で生活をまかなうと、何でも自分でできるような気がしてしまうが、それは商品関係に依存しているとも言える。
 「自立」という言葉を和英辞典でひいてみたら、independenceとあった。支配関係や依存関係からの独立というところだろうか。支配関係や依存関係から脱却するには、依存先を変えるのではなく、関係のあり方を組み替えることが必要だろう。支配―被支配ではなく、支え合う関係であること。その関係の組み方は、いろいろあるように思う。

根本的に考えれば「自立」している人など誰もいない。お金を稼ぐことだって、いろんな関係のなかでしか成り立ちえないのだし、食べ物はほかの生き物であるのだし、人間だけではなく、動植物や環境を含めた、いろんな関係のなかで私たちは生きている。「自立」ではなく、ともに生き合っていける関係を考えていきたい。

学校で教えたい授業シリーズ・大阪のお知らせ

12月6日、フォロを会場に「学校で教えたい授業シリーズ・大阪」を開催する。
テーマは、「貧困・野宿」「不登校・ひきこもり」「精神障害」「セクシュアル・マイノリティ」の4つ。もともとは「学校で教えない」と銘打っていたのだが、教えないとも限らないだろうということで「教えたい」に変更。午前と午後で、ひとつずつ受講できる。

ただ、フツー学校では教えない内容ばかりだろう。むしろ、「なかったこと」にされ、日常からは排除されてしまっている問題だともいえる。

日 時:2009年12月6日(日)午前10時~午後5時
主 催:Alternative Rainbow Class(ARC) http://d.hatena.ne.jp/a-r-class/
場 所:フリースクール・フォロ(大阪市中央区徳井町1-1-3)
参加費:1500円(資料代込み/会場にて集金) ※18歳以下無料
定 員:先着70名
申込み:FAX:06-6634-2934/メール:cex38711@syd.odn.ne.jp(生田)

詳細は下記サイト参照。
http://d.hatena.ne.jp/a-r-class/20091015


Profile

HN:
なるにわ
HP:
性別:
非公開
自己紹介:
「なにものか」でなくともよい場所、なるにわ(NPO法人フォロが開いてます)。毎週土曜日の午後にサロンを開いているほか、づら研(生きづらさからの当事者研究会/月に1回)、終末ティータイム、冊子『もじにわ』刊行、なるにわラジオ配信などの活動をしています。ブログは、おもにコーディネーターの山下耕平が書いています。

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