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なるにわ ぶろぐ

「なにものか」でなくともよい場所、なるにわのブログです。
なるにわの活動、づら研などについて
おもに、コーディネーターの山下耕平が書いてます。

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私にとっての「名前のない生きづらさ(3)

●まともコンプレックス ―私の「顔なしの生きづらさ」―

もうひとつ、私にとって名づけづらい生きづらさの話を。
ずばり「まともコンプレックス」です。
私オリジナルの言葉ではなく、みうらじゅんさんが出典だそうですが、この言葉を聞いたとき「ああ……それ私のことです!」と思わず身を乗り出してしまいました。づら研に参加していると、時にとてもシリアスな話を聞く機会も少なくありません。多くはやはり、家族との関係、家庭環境についてなのですが、そこにとどまらず、シリアスというより、もはや壮絶な人生を生き延びてこられた方の話は、いつも私の胸を苦しくさせます。

それは、その人がどれだけつらかったのだろう、という純粋な共感だけでは、けっしてありません。一言で言ってしまえば、この人の人生や、そこで味わった苦しみに比べれば、私の生きづらさを語る言葉など、どれほどの意味を持つのだろう、という、自意識にまみれたコンプレックスです。

私の生きづらさなんて、ごくごく小さなことを大げさに切り取って、わぁわぁ大騒ぎしているだけじゃあないか。

そんなふうに卑屈になっているときに限って、私は主軸を自分に返してやることを忘れているのです。どこにいるとも知れない「聞き手」の存在を意識して、そちらに主軸を置いて、先月のレポートにあった言葉ですが、自分の生きづらさを、勝手に矮小化して拗ねている。

まったく始末に負えません。ただのかまってちゃんです。
つまり、ここが私の数ある自意識こじらせポイントのひとつだと言えます(自覚して、なるべく軸足を自分に返していきたい所存です……)。

ここでもやはり、「理由のない」、「他者に説明ができない」、「説明すらはばかられる」という一点が、私にとって大きな意味を締めています。そうして、こんな言い方は極めて乱暴だけれど、トラウマやシリアスな生育歴は、それが深刻であればあるほど、その経験は後に輪郭のしっかりとした「名前」を与えられ、名前を与えられるとこによって、繰り返しになりますが、よしあしは別として多くの「聞き手」を得ることができる。私だって「不登校」や「ひきこもり」といった名づけがあるからこそ、私の話を聞いてくれる人がいることは否めません。けれどシリアスな家庭環境や過酷なトラウマ経験を持たず、ただ自身の性質が受けつけずに不登校になった私は、先述したように「不登校」というはっきりとした「名づけ」を持ちながら、その理由は茫漠としていて、人に語れるようなドラマ(なんて失礼な言い草!)を、持っていません。そのことに、私自身、ときどき困惑してしまいます。

何の問題もないとは言えないけれど、それなりに家族仲の安定した家庭に育ち、体罰やいじめにもあわず、現状、とくに自分に対しても否定的ではない。そんな私が、一体どの口で生きづらさを語れるというのか。私の中の、そんな名づけられない息苦しさ。それこそが、私にとっての「顔なしの生きづらさ」と言えるのかもしれません。




●「理由」の不在や「説明」の困難さにこだわるワケ
 ―生きづらささえ「承認問答」なの?―

私はこの文章で、さんざん「理由がない」、「他者に説明できない」ことが苦しいのだと、訴えてきました。 

けれども、言語化することができない=「名前のない生きづらさ」と言えるのでしょうか? ここまで書き連ねてきて思うのは、必ずしもそうではない、ということです。

もう少し踏み込んでしまえば、今回私が語ってきた、「言語化」することの困難さからくる生きづらさとは、いったい誰に向かっているのでしょうか? それは明らかに私自身ではなく、他者、ひいては社会に向かっています。

私自身にまったく無関係である、ということはないと思うのですが、方向性として私は自分の生きづらさに「名前がない」ことを、「それじゃあ他者に分かってもらえない、認めてもらえない」という焦りから捉えていた気がします。

そうして焦れば焦るほど、本質的な……つまり、軸足を自分に置いた「名前のない生きづらさ」がこぼれ落ちていってしまっているようなむなしさを、私はいま、かすかに感じています。

結局のところ、私は生きづらささえも「承認問答」にのせてあがいてただけなのかと。
「生きづらさにも社会的承認を受けたものと、そうでないものがある」とは、づら研での参加者の発言ですが、生きづらささえも社会的承認に絡めて考えてしまうことそれ自体に、どうしようもない人間の業の深さを感じてしまいます。

最初に少し書きましたが、こうして名前のない生きづらさにすら名前をつけて語ろうとする矛盾を、少なくとも私は抱えています。抱えた矛盾を否定するほど潔癖ではないけれど、名づけや言語化に隠され、焦点をあてようとすればするほどずれてしまう。

そのことが、むなしく、さみしい。
語ることでこぼれ落ちるものについて語る、という試みは、やっぱり上手くはいきませんでした。少なくとも、この文章では。
いっそ語るべきでないのでは? という意見もありだなぁと、素直にそう思います。

けれど、語ろうとすることには、それは確かにそこにあるのだと、なかったことにしてほしくはないのだと、そういう訴えが含まれているように、私には思えるのです。私の中にも、そのように訴えるなにかが存在していて、そのなにかが、こうして長々しい文章というかたちで私を試行錯誤させた。そういうことだと思います。
ここまでのお付き合い、ありがとうございました。
2014年1月22日
野草あらため のだ あやか

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「なにものか」でなくともよい場所、なるにわ(NPO法人フォロが開いてます)。毎週土曜日の午後にサロンを開いているほか、づら研(生きづらさからの当事者研究会/月に1回)、終末ティータイム、冊子『もじにわ』刊行、なるにわラジオ配信などの活動をしています。ブログは、おもにコーディネーターの山下耕平が書いています。

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