|
2012 05,08 23:37 |
|
|
大阪市家庭教育支援条例案と
条例・法律による「親学」推進に関する緊急アピール
5月1日、大阪維新の会大阪市会議員団が「家庭教育支援条例」の議会提出を検討していると公表し、各方面から批判が続出、7日には白紙撤回を表明した。しかし、この条例案は根本的に大きな問題と危険をはらんでいる。また、条例案の背後には国政での動きもある。この4月には超党派国会議員による親学推進議員連盟が発足しており、「『親学』を推進する法律の年内制定を目指し、政府に推進本部を設置することや、地方自治体での条例制定、国民運動の推進」を謳っている。大阪だけの問題ではないのだ。私たちは、大阪市条例案の完全撤回を求めるとともに、この条例案の出処である埼玉県など他の自治体における「親学」推進の取り組み、国会における議員連盟の動向にも強く懸念を表明する。
同条例案は「乳幼児期の愛着形成の不足が軽度発達障害またはそれに似た症状を誘発」「それが虐待、非行、不登校、引きこもり等に深く関与している」「親心の喪失と親の保護能力の衰退が根本問題」「わが国の伝統的子育てによって発達障害は予防、防止できる」としていた。
問題は発達障害への無知にとどまるものではない。不登校、ひきこもり、虐待、非行など、子どもに関わる問題を十把一絡げに列挙し、その原因を「親心の喪失と親の保護能力の衰退」に求め、親への強制をともなう教育を謳っていたのだ。これは暴論と言わざるを得ない。
たとえば不登校は、80年代までは本人の「神経症、消極的な性格」や「父親に男らしさが欠ける」など親の養育態度の問題とされていた。そこでは、子どもが不登校というかたちで訴えた問いが、個人の資質や家庭環境のせいにされてしまっていたのである。しかし、1992年には文部省も「誰にでも起こりうる」と認識を転換している。子どもが行けなくなるような学校のあり方を問わず、親の養育態度の問題とのみ捉えるのは時代錯誤というほかない。この条例案は、個々の問題への見識がないままに、すべてを短絡的に「親心の喪失と親の保護能力の衰退」に結びつけている。
もっとも、前文に書かれた「子供の『育ち』が著しく損なわれている今日、子供の健全な成長と発達を保障するという観点に立脚した、親の学び・親育ちを支援する施策が必要とされている。それは、経済の物差しから幸福の物差しへの転換でもある」という問題意識そのものには、共有できるものがある。しかし、「親の学び・親育ち」と言いながら、その内実は道徳的に現在の親を断罪し、「伝統的子育て」の復権を説くものでしかない。また、親学推進協会の考えを受け売りしているもので、特定団体の思想を全面的に行政が支援し、条例によって家庭に介入し、価値観を押しつけるものとなっている。
親を支援しようというのならば、「親心」を「教育」するのではなく、親の置かれている状況を改善し、子育て支援策を拡充するものでなければならないはずだ。しかし、大阪市は、学童保育への補助金廃止や子どもの家事業の廃止、ファミリーサポート事業の縮小など、次々に子育て支援策の縮小削減を打ち出している。実際には、行政が親を追いつめているというのが現状だ。
「親心」を「教育」するなどという、しかも強制をともなう条例など、いらない。私たちは条例案の修正ではなく完全な撤回と、「親学」推進の中止を求める。また、「子供の健全な成長と発達を保障する」というならば、子どもに関わる事業の縮小削減を取りやめ、むしろ拡充することを求める。
2012年5月8日
特定非営利活動法人フォロ、不登校政策を考える市民ネットワーク大阪、結空間、小野洋(スロースペース・ラミ代表)、住友剛、中尾安余(結空間)中林和子(ふぉーらいふ)、花井紀子(フォロ代表理事)、宮田裕介、南口洋、宮野善靖(フォロ理事)、山下耕平(フォロ・全国不登校新聞社)、山田潤(学校に行かない子と親の会・大阪)、吉田充伸、湯上俊男(フリースクール・フォロ)、神戸フリースクール、子育て・不登校支援ネット クロスロード、嶋田香弥子(クロスロード代表)、伊藤慶子、伊藤樹、貴戸理恵、谷口志津江、村上悦子、島野加代子
|
|
|
2012 05,04 15:40 |
|
|
トンデモ条例を起草した人は、発達障害について無知なだけではなく、ここに列挙された不登校、ひきこもり、虐待、非行などについても、まじめに考えたことはないだろう。つまりは、ムカツキを吐き出すための異物としての記号でしかないのだ。だから、それぞれの文脈に即してみればトンデモな暴論が、堂々と述べられている。当事者や直接関わりのある立場から、その乱暴さをきちんと批判しておく必要はあるだろう。正直、話が通じる相手には思えないので、疲れる作業にはちがいないけれども……。
ただ、誤解を恐れずに言えば、このムカツキそのものは、共有してしまってよいと思う。過去を幻想的に美化するのはまちがいだが、条例案を否定したいがために、現状を肯定する(昔より今のほうがマシ)という図式では、たとえ条例案を引っ込めさせても、出た頭を叩いたことにしかならないだろう。
第一、「親学」だとか言っているのは、維新の会単独ではない。国会議員超党派の議員連盟(安倍晋三会長)がこの4月に発足し、“「親学」を推進する法律の年内制定を目指し、政府に推進本部を設置することや、地方自治体での条例制定、国民運動の推進”をうたっている。トンデモ条例などと笑っていられない状況だ。
ハシズムを支えているのも、現状へのムカツキだろう。ハシズムを嘲笑しても、勢いは止まらない。ムカツキの根に届く言葉が、しかも安易な幻想ではない言葉が必要だ。
|
|
|
2012 05,04 10:58 |
|
|
このトンデモ条例の逐条について、松永英明さんという方が下記サイトでかなり的確に批判している。
なので、ここでは少し別の角度で考えてみたい。
このトンデモ条例をトンデモと思う人が大勢ならいいのだが、世間一般ではどうだろう。ここで問題視されている発達障害や不登校、ひきこもり、虐待、非行の当事者や実際に関わっている人ならば、トンデモと思うだろうが(そうあってほしい!)、世間的には、「やっぱり親が問題だからね」で受けいれられてしまいそうな気がして怖い。
トンデモ条例は、いまの子どもの問題と思われるものを列挙して、すべて「親心の喪失と親の保護能力の衰退」のせいにして、伝統的子育ての復権を説く。ここには、いまの社会への不安やムカツキがあるように思える。古い共同体は解体され、核家族さえもバラバラ、個々人が砂のように結びつきを失って、消費者としてしか生きられない。商品価値のない人は存在価値がないような社会で、自分という存在がどこにも受けとめられない不安、渇きがある。このムカツキは、よくわかる。私のなかにだってある。
問題なのは、このムカツキから、一部の「問題」とみなす人を排除し、過去を幻想的に美化して、復古を唱えていることだろう。それは心情的には受けいれられやすい。自分を問わずにすむし、不安やムカツキを簡単に吐き出せるから。トンデモ条例はほんとうにトンデモなので叩かないといけないが、こういう構図があるかぎり、モグラ叩きみたいなもので、いくら叩いても別のトンデモが出てくるだろう。
(つづく)
|
|
|
2012 05,03 23:37 |
|
|
大阪維新の会の大阪市会議員団が「家庭教育支援条例」なるものを市議会に提出しようとしている。
いわく、「乳幼児期の愛着形成の不足が軽度発達障害またはそれに似た症状を誘発」していて、「それが虐待、非行、不登校、引きこもり等に深く関与している」、「親心の喪失と親の保護能力の衰退」が根本問題で、「わが国の伝統的子育てによって発達障害は予防、防止できる」というもの。
あまりのトンデモ条例に、ツイッターなどネット上では非難ゴーゴーだ。条例案は基本理念のひとつに「発達段階に応じたかかわり方についての科学的知見を共有し、子供の発達を保障すること」としているが、どこの誰がなんの科学的根拠があって、こんなことを言うてるのかと、出処が気になったので、ネット上で情報をたどってみた。
根拠とされているのは、高橋史朗(明星大学教授)という人の学説で、高橋氏は親学推進協会という財団法人の理事長をしている。この協会には、櫻井よしこ、林道義、長田百合子なども名前を連ねている。また、高橋氏は埼玉県の元教育委員長で、埼玉県知事も影響を受けているようだ。
さらに、この4月には、国会議員の議員連盟もできている。会長は安倍晋三で、40~50名の議員が名を連ね、「家庭教育推進法(仮称)を制定することと、国民運動的に親学を広げるバックアップを目的としたい」という。大阪市単独の動きではないのだ。万一、大阪市で条例が可決されてしまったら、法律化に進んでしまうだろう。これはちょっと黙っていられない。
(つづく)
|
|
|
2012 03,16 11:47 |
|
|
吉本隆明さんが亡くなった。直接間接に、私たちの活動にも影響してきた人だと、あらためて思う。私なりにそれを一言で言えば、自分に立脚する、ということではないかと思う。国家のため、社会のため、理想のための自分ではなく、学歴や職歴など肩書きの自分でもなく、“内臓感覚”とか“アフリカ的段階”の自分。そのときどきの社会の風向きに自分を合わせるのではなく、むしろ、そこからズレてしまう自分の感覚に立って物事を考えること。それが吉本さんの徹底したスタンスだったのではないだろうか。
かつて、『不登校新聞』で吉本さんにインタビューをしたことがある。いくつか、引用したい。
・僕が大学1年生のとき、日本が敗戦しました。敗戦したとたん、就職口はなくなるし、学校自体も続くかどうかもわからない。社会ががらりと変わってしまった。(中略)今までやっていたことが通じなくなってしまったわけです。バカバカしいというか、とてもむなしかった。社会が変わるってことは、本当に、むなしくなるぐらい影響がある。敗戦までは、僕は社会についてなんて、まるで考えないできた。でも、それが大欠陥だったと思いました。それが、経済学とか経済現象といった、社会を動かしている基本にあるものを少し勉強しはじめた理由です。だから、正しいか、まちがっているかは別として、そのときどきに、社会に対して自分なりのビジョン、自分なりの判断をちゃんと持っていないとダメだぜ、ということは、敗戦以降、今にいたるまで、変わらずに頭に置いていることです。
・僕はいろんな社会現象に発言しているけど、ぜんぶ素人なんですよ。素人として、社会的な現象に対して、これをどう見たらいちばんいいのか、と考え、発言してきたのだけど、それでいいんだと思いますね。
・学問者や研究者と、僕みたいな物書きとどうちがうかというと、前者は頭と文献や書物があれば研究ができる。物書きは手を動かさないと作品が書けない。僕も手で考えてきた。頭だけで書いたらつまらないものしか出ない。考えたことでも、感じたことでも手を動かして書いていると、自分でもアッと思うことが出てくる。それは手でもって書いてないと出てこない。
・閉じこもりって、悪くないんじゃないですかね。それに、中途半端に引き出すのは、どう考えてもよくない。メディアは、閉じこもらないで、出ずっぱりで仕事をしたり、学校に行くのが一番いいことなんだ、という価値観で動いていますが、そんなのはウソですよ。だいたいの人間が1日のなかで、閉じこもっている時間がありますよ。
・重要なのは、いい学校に行くとか、いい会社に勤めるとかより、自分が経験したことを何回も何回も練り直して考えること。それをしなければ、人間の器は出てこないし、自分が持っている先入観にも気づかないと思います。
(以上、『この人が語る「不登校」』全国不登校新聞社編
このインタビューに私自身は参加していないのだが(子どもたちだけで取材した)、その後、本にまとめるにあたって、吉本さんとやりとりをさせていただいたことがある。その際、電話で長時間、お説教をいただいたのだ。それは原稿内容についてではなくて、出版のスタンスについてだった。インタビューを収録させていただいたのは『この人が語る「不登校」』
たしかに当時、不登校はマスコミにも注目されていたし、そういう風向きを利用したいという下心があったにちがいない。しかし、そういう風向きに合わせてしまうと、自分の足下を見失ってしまう。深く自戒を込めて言うが、不登校運動の言説には、そういう側面があったと思う。
たとえば、「学校に行かなくても社会でやっていける」という考えは、今となっては、こっぱみじんに砕いてしまったほうがいいと私は思う。それが一面の事実にちがいないとしても、子どもにとって学校がやっていけない場所となっているように、いまの社会は、多くの大人(とくに若者)にとってやっていけなくなっているのだから。“やっていけない”という側に立ち続けること、自分のなかの“やっていけない”という部分、世間とのズレに真摯であること。あらためて肝に銘じておきたい。
|
|
| ブログ [PR]資格 携帯 |


