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なるにわ ぶろぐ

「なにものか」でなくともよい場所、なるにわのブログです。
なるにわの活動、づら研などについて
おもに、コーディネーターの山下耕平が書いてます。

© NPO法人フォロ

   

高橋翼さんを囲んで

先週、14日のサロンでは、高橋翼さんを囲んでおしゃべりをした。高橋さんは石川県出身で、1977年生まれ。小学校5年生のときから学校に行かなくなり、その後、通信制高校に通いながらバイトをいくつもして、不登校新聞社で働くことをきっかけに東京に。短期間だったが、私はそこで高橋さんに出会った。その後、高橋さんは障害者介助の仕事に就き、2007年に大阪(泉大津市)で、障害当事者とともに自立生活センターを立ち上げている。
私が高橋さんを呼びたかったのは、ひとつには不登校について、表面的な物言いではなく、根っこのところから言葉にされている感じがすること。もうひとつには、ヘルパーとして「支援」について深く考え抜かれているように思ったことがある。ちょうど、なるにわ参加者にもヘルパーの仕事に就いている人もいるので、お招きして、いっしょにおしゃべりしたいと思ったのだ。


●不登校について

最初にうかがったのは、不登校経験のこと。高橋さんは、自分が直接いじめられていたわけではないものの、小学校3年生のころからクラスでいじめが起きるようになり、そのことに衝撃を受け、それが自分に向かうことに恐れを感じていた。たとえば、家が魚屋であるとか、泳ぎが得意でないとか、運動が苦手とか、ちょっとした差異が、いじめや暴力の引き金になり、仲間外れや嘲笑の的となる。高橋さんが学校を休みはじめたきっかけは、裁縫箱の色が周囲とちがったことだった。それがイヤで、家庭科のある火曜日だけ休むようになった。ところが、先生に「先生のために明日は来てくれないか」と求められ、「行きます」と言ったきり、行けなくなった。しかし、そのことは当時は絶対に言わなかったという。

行かなくなった当初は、家でゲーム三昧の日々で楽しかったが、まわりの反応から、しだいに自分を否定されていくように感じる。たとえば、友だちはだんだん遊びに来なくなり、こちらから遊びに行くと、友だちの親に追い返されたり、自分が遊びに行ったことに苦情を言われることまであった。あるいは、親戚に「学校に行ってないの?」と聞かれたとき、母親が「行っている」とウソをついたり……。

周囲には学校に行かない自分に対する否定的なまなざしがある。そして、いまの自分の状態を否定して、何とかしようと働きかけてくる。だから、フリースペースなどを勧められても、拒絶していたという。

その後、10代後半に、シンポジウムで当事者として話す機会があったのをきっかけに、当事者グループができて、冊子の発行などを始める。周囲の否定的なフィルターを通すのではなく、当事者どうしが出会い、情報発信していったことの意味は大きかっただろう。


●ヘルパーとして

後半は、ヘルパーについて、お話をうかがった。不登校当事者としては、周囲からの「支援」に否定的だった高橋さんは、支援についてどう思っているのか。

高橋さんは、「介助というのは、本人ができないことを代わりにするという当たり前のことで、とてもシンプルなものだ」という。しかし、そこで判断を支援者側がするのは当事者にとっては「うざい」。かといって、言われたことをこなすだけのロボットになってしまうと、支援者側がしんどい。なかには、割り切ってできる人もいるが、高橋さんの場合は、そうはいかなかったという。

たとえば、ヘルパーと障害者の関係だって、人間関係だから、まちがうこともあれば、行きちがうこともある。理不尽なことを言われることだってある。そういうとき、仕事だからと流してしまうのではなく、自分の感情や思いはちゃんと伝えるようにしているそうだ。また、自分が不登校の当事者として感じてきたことを語ると、向こうも自分のことを語ってくれ、そこで関係ができてくることもあるという。つまり、具体的な介助の局面だけではない、人間関係の部分が重要だということなのだろう。

ただ、仕事の仕方は人それぞれで、いろんなヘルパーがいることが大事なので、わりきってやる人がいてもいいし、いたほうがよい、あくまで自分の場合はそうしている、ということだった。


●ALSの現場

しかし、たとえばALSの方の場合などは、急速に症状が進行してコミュニケーションもどんどん難しくなっていく。それを本人も受けいれられないし、周囲も追いつかない。いらだちも募るし、高橋さんも、ALSの介助現場に入るのは、「さながら戦場に赴く気持ちだった」という。

ALS患者のうち、気管切開をして延命するのは3割。7割は拒否して死んでいくという。しかし、その意思決定は、医師や病院によって大きく異なっていて、周囲の考えが本人の意思に深く影響している。

ALSの介助現場では、生きていることのむきだしの部分に直面し、生きることの価値とは何なのか、考えさせられることも多い、ということだった。なるにわ参加者でも、ALSの介助現場に入っている人がいて、大変さを口にすることもあるので、ヘルパーどうしで、その大変さが共有できる場というのも必要のように感じた。


●埋めてはいけないこと

また、障害者であるがゆえに、家族と特定のヘルパーのみに関係が限定されてしまっていることもあるという。しかし、ヘルパーだけが友人というのはおかしい。関係の希薄さはヘルパーが埋められるものではないし、埋めてはいけないものだと高橋さんは言う。むしろ、本人の生きていく世界をいかに拡げていけるか。そのサポートを、どうできるか。なかには、海外旅行に行く人もいたり、どんどん世界を拡げていっている人もいる。しかし、なかなかそこが難しい場合もある(ALSの場合のように)。そこが悩ましいところだとのことだった。

支援者は、その難しさに直面しながら、葛藤しつつやっていくほかないのかもしれないと、自分の場合に引き寄せながら考えさせられた。難しいものは難しい。葛藤するよりほかないこともある。悩ましさは尽きないが、悩まなくなったら、おしまいなのかもしれない。(山下耕平)

逃げ道の研究

今回のづら研は、「逃げ道の研究」だった。

前回、狭窄さんの研究(視野狭窄さん)で、狭窄さんがいらっしゃっているときは自覚できないもので、自覚できないから悪循環してしまったりする、自覚するには、狭窄になってしまっている関係から距離をとって、ちがう人間関係や、ちがう感覚世界に身を置くこと、第三者の空気を入れることも必要(ただし暴力的な介入は問題)という話があった。つまり、逃げ道がないとしんどい。そこで、どうやって逃げ道をつくれるか、考えてみようということで、今回は「逃げ道の研究」ということになった。


●物理的に逃げても……

まず、不登校を経験した方から、自分のときは「学校に行かなくていい」とか「図書館に来てもいい」なんて選択肢はなくて、不登校になったときは、ひたすらゲームに逃げるしかなかったという話があった。
不登校といっても、学校から物理的に逃げただけでは逃げたことにはならなくて、親や周囲の目、社会の価値観など、幾重にも取り囲むものがある。そこから逃げるには、ゲーム、レゴ、本、テレビなどに没入することで、自分に逃げ込むしかないというような話があった。しかし、最近はネットの普及もあって、ゲームもオンラインゲームだったりするので、良くも悪くも自分にこもるようなことはできないという話もあった。


●「選択」か「逃げ」か?

また、「選択」というと意識的なものだが、「逃げる」というのは身体反応に近く、頭では「逃げてはダメだ」と思っていても、そうせざるを得ないというような、無意識的なものだということが、いろいろな経験談から見えてきた。何度も繰り返し出てくるテーマだが、渦中のときは、言語化できない。言語化できるのは落ち着いてからのことだが、逃げるというのは、言葉で整理が着く前に、アース線のようなものとして必要なのだろう。


●親が逃げ道をふさいでしまう?

親の立場から、子どもの逃げ道をふさいでしまっているのではないかという話もいくつかあった。正面からダメと抑圧するよりも、一見、理解のあるような言葉で子どもを誘導するほうが、子どもを追いつめてしまう、真綿で首を絞めるようなこともあるのではないかという話があった。また、親も子育てからは逃げられないので、ほどよい距離感を保つのが難しいという話も。そういう意味では、親子関係は、学校との関係以上に難しいかもしれない。


●体育会系の価値観は

体育会系の文化では、逃げたらダメ、立ち向かうべきという価値観が根強い。それは学生時代の部活動だけではなく、会社などでも根強くある。それはゴールが設定されているときには強さを発揮するかもしれないが、ゴールを自分で設定しないといけないような現在では、ガマンが自己目的化したり、ブラック企業のように悪いところばかりが出てしまっている。逆に言えば、そういう時代のなかで、逃げ道のあり方も複雑になってしまっている(尾崎豊が「この支配からの卒業」と歌ったようにはいかない……)。


●自分から逃げていてよい?

しんどい環境や関係から逃げることは必要でも、ずっと逃げっぱなしでよいのか、自分から逃げてしまっていてよいのかという話が、いくつかあがって、後半は、そのあたりを考えてみた。

一時的にはよかったと思えても、葛藤や悩みは尽きない。まあ、どう転がっても葛藤や悩みは尽きない気もするが、そういう葛藤や悩みと向き合うのでもなく、ひきこもっているなかで、気力を奪われていることもあるのではないか。仕事だけではなく趣味などに向かう気力もなく、自分に壁を立てて、一見、楽になったようで、苦しいままのこともあるのではないか、という問題提起があった。

ということで、次回は「自分の壁」をテーマとすることになった。
6月6日(月)13時~大阪ボランティア協会にて。よかったら、どなたでもご参加を。
(文責・山下耕平)

おーとーせよ/『こちらあみ子』読書会

4月9日、今村夏子著「こちらあみ子」の読書会をした。参加人数はわたしを含め3名。こじんまりとした集まりだったが、3人がそれぞれに、この小説に畏敬の念を、わかりやすくいえばただならさを感じていたので、とても充実した読書会となった。

まずは、簡単なあらすじを。

主人公のあみ子は、いつも人とすれちがってしまう。無気力な母親とも、幼いころは仲が良かった不良の兄とも、大好きなのり君とも。生まれてこられなかった「弟のおはか」をつくったり、幽霊の声が聞こえたり、トランシーバーで誰にも届かない交信をこころみたりするとき、あみ子はいつだって一生懸命だ。その懸命さゆえに、周囲の人々と決定的にズレ続けてしまうあみ子だが、当のあみ子だけは、その亀裂に気づくことができない。やがてあみ子には別離の日が訪れるが……(2011年度、太宰治賞、三島由紀夫賞受賞作品)。

この小説を読んでみて、わたしがまず思ったのは、作者の視点はどこにあるんだろう、ということだった。というのも、作者=あみ子であったら、この物語は書かれなかったと思ったからだ。すくなくとも、このような語られ方にはならなかったはずだ。登場人物の誰の視点からも、感情からも、あえて距離をとっている気がする。主人公のあみ子からさえも。
それゆえに、あみ子の孤独はいっそう引き立つ。
本当の意味で、人は圧倒的にひとりなのだ。
それでも他人だらけのこの世界とどうにかつながって、生きていかなければならない。
この小説の一筋縄ではいかないところは、人はひとりだけれど、ひとりだけで生きていくことはかなわない、ということを切実に描いているのに(だからこそ?)、安易なハッピーエンドは提示されない点だ。
自分ではない他者とすれちがってしまう、その瞬間のピシリと胸が軋むような音を、あみ子を通じてわたしたちは何度も聞くことになる。
せつなく、痛々しい音だ。
それでもあみ子は世界に向かって、無邪気に残酷に、何度でも呼びかけ続ける。
「こちらあみ子。おーとーせよ」と。

「でも、誰もあみ子に応えることはできないんですよね」
あみ子の存在が、呼びかけ続けるその声が、親しい人に対してほど暴力性をもってしまうことに注目したのは、Mさんだった。
「それも、無理なからぬことかなって思う。自分の周囲にあみ子のような存在がいたら、やっぱりひいてしまうと思うから」
その一方で、あみ子が最も直接的な暴力を介して、大好きな「のり君」と渡りあうシーンが印象的だとMさんは言う。あみ子は積年の想いを込めて、のり君に「好きじゃ」というが、徹頭徹尾、一方通行で、ある意味では暴力的だ。対するのり君は「殺す」と返す。あとはもう、「好きじゃ」と「殺す」の応酬だ。その果てにあみ子はのり君に殴られてしまう。

「あみ子が周囲とズレてしまうのは、あみ子が言葉以前の世界を生きている存在だからではないか」と指摘したのはYさん。いわく、「あみ子はプリミチブな世界に生きている」。
たとえば、あみ子がわたしたちとまったくちがった道理によって生きているのあれば、そのズレに痛みも感じない。痛みを感じるのは、みんなあみ子のように言葉以前の世界に浸って生きていた時期があるからではないか。人は言葉以前の世界から、だんだん言葉の世界に入っていく。その言葉を通じて、社会とつながっていく。だから、いくつになってもプリミチブさを強烈に放ち続けるあみ子の前で、周囲は苛立ちをつのらせてしまう。でも、それはあみ子がわからない存在だからではなくて、言葉以前の自分、プリミチブな自分が刺激されてしまうからかもしれない、と。
「自分が小さいころの、世界とのつながり、他者が見ている世界とズレてしまう瞬間のことを思い出した」とYさん。

そのように考えていくと、つながり損ない続けるあみ子が、かろうじてつながれている人々の存在も、また象徴的だ。家族と離れたあみ子を引き取ったおばあちゃん(高齢者)、そんなあみ子の欠けた前歯を見せてもらいにやってくるさきちゃん(子ども)、そして、生まれてこなかった赤ちゃん(死者)。みんな「世間一般」の大人が敷いたレールから、おそらくはプリミチブの方向へはみ出している存在だ。

あみ子の強烈な存在感についつい引きずられがちなわたしに、「自分のすぐそばにあみ子のような存在がいたら?」という問いで考えさせてくれたMさん、あみ子の強烈さを「プリミチブ」という言葉でひも解いていったYさん。それぞれに、あたらしい視点と発見のなかで物語と出会いなおすことができるのは、読書会の醍醐味だと思う。一粒で二度おいしいどころか、噛めば噛むほど味わい深くなっていくなんて、スルメみたいだ。

人はみんな、いつかあみ子だった自分を忘れて、というより覚えておくことすらできず、どんどん知識や知恵、言葉といったものが重視される世界へとスライドしていく。そんななかで、感覚世界に止まり続ける存在=あみ子を「日常」へとぽん、と投げ込み、生じる波紋を、美化するでも貶めるでもなく、淡々と描いてみせた作者は、やっぱりただものじゃないと思う。というより、何者なんだろう?
この人が次にどのようなものを書くのか、興味が尽きない。
ちょうど、「たべるのがおそい」という素敵なタイトルのムック本に、5年ぶりの新作が載ったところだという。こちらもぜひ、読んでみたいと思う。(野田彩花)

なるにわラジオ第14回放送

なるにわラジオ

「なるにわラジオ」は、仕事もしんどい、ニートするのも、ひきこもるのもしんどい、上から目線で支援されるのもイヤやし、なんか知らんけど生きてるのしんどいわって、日々、悶々としているみなさんと、いっしょにぐだぐだの時間を過ごすラジオ番組です。

 第14回放送(2016.05.01 / 00:00a.m. OA)



パーソナリティ:谷口、山下
オープニング曲:Groove
ジングル作成:加藤直人
ジングル(声):のだ あやか


▼今回の放送は

○今月のオシオシ!:明後日からがんばるスポーツ講座

 

○新コーナー くさ研
ほか
  
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なるにわラジオへの投稿フォームを作りました。

もしくは、下記にお便りください。
〒540-0036
大阪市中央区船越町1-5-1 NPO法人フォロ
FAX:06-6946-1577
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なるにわは、赤字を出しながら運営してます。
おもしろそうな活動しているから、カンパしてもいいよ、という寛大な方がいらしたら、下記までお願いします。

郵便振替口座 00900-1-25564
加入者名 特定非営利活動法人フォロ
※なるにわカンパと明記してください。

狭窄さんの研究

今回のづら研は、「狭窄さんの研究」だった。視野狭窄の狭窄さん。しんどいときほど視野狭窄になって、何かにしがみついてしまう。そういうときは、狭窄さんがいらっしゃっているのだということで、研究してみた。最初に、野田彩花さんに話を聴きながら研究を進めたが、途中からは参加者もいろいろ話していたので、以下はゴッチャになっている。

・狭窄さんがいらっしゃるとき

まず、どういうときに狭窄さんがいらっしゃるのか、考えてみた。

・焦っているとき
・余裕がないとき
・失敗したと思うとき
・悩んでいるとき
・孤独なとき
焦っているときは、目と手先が固まってしまうなど、文字通り身体的にも狭窄になってしまうことが語られた。たとえば、バイトなどの研修でチェックされているとき、迷子になったとき、自分のペースを保てないとき、など。

失敗したときなど、どうやら他者からの評価は、大きく影響しているようだった。「私なんて」と思えてしまうとき、ひとりで酒を飲んでいるとき、頭ごなしに決めつけられたとき、などという声もあった。

・どんな狭窄さん?

狭窄さんは、そのとき盛り上がっている感情にとりつくらしい。怖い、不安などネガティブな感情の場合もあれば、うれしい、好きなどポジティブな感情の場合もある。ただ、登場するには方向のちがいもあって、

ネガティブ狭窄さんは、他者からのまなざしを気にしているときで、
ポジティブ狭窄さんは、自分から他者をまなざしているとき。

また、エネルギーが飽和状態になっているときは、それを放出するきっかけを求めていて、そのために、わざわざイライラする情報を見つけてきたり、自分のトラウマになるようなことに近づいたり、自傷的な狭窄さんが来る場合もあるようだった。

とくにタチが悪いのは、人にとりついてしまった場合。それがポジティブにせよ、ネガティブにせよ、その人自身ではなく、その人のある部分だけに狭窄してしまって、敵/味方に二極化してしまったり、勝ち/負けにこだわってしまったりする。そうなると、現実と出会いそびれてしまう。


・狭窄さんが来ているときの状態は?

まず、狭窄さんが来ているときは、その自覚がないということ。
そして、ループしてしまうこと。
狭窄さんが来ていることを自覚するには、ちょっと俯瞰してみることが必要で、そのためには、狭窄さんを否定するのではなく、狭窄さんを認めること、来ることを拒まず、むしろ、おもてなしをすることが必要ではないかという話になった。


・狭窄さんのおもてなし方法

狭窄さんを現実の人にとりつかせてしまうのが一番やっかいなので、妄想などで出番を与えてあげること。
人に話すことも大事だが、言語化できるまでには時間がかかるので、まずはエネルギーを放出する工夫をしてみること(怒られるのが怖い問題でも同じテーマがあった)。カラオケ、ゲーム、部屋の片付け、料理、散歩など。
狭窄になってしまっている関係から距離をとって、ちがう人間関係や、ちがう感覚世界に身を置くこと。第三者の空気を入れること(ただし暴力的な介入は問題)。


・狭窄さんのプラス面

文章を書くときなど、自分にもぐっていくには、シャットダウンも必要。アスリートやアーティストなども、狭窄なところがある? ただ、摂食障害や依存症など、それ自体が自己目的化してしまって、ループしてしまう場合もある。

誰しも価値観などは狭窄な面があって、自分の価値観で他者を決めつけないことは大事。主語をつけて「私はこう思う」など、自他の区別をつけることは大事。それをしないと暴力的になってしまう。

ほかにも、いろいろな話があったが、およそ以上のようなことが研究を通じて見えてきた。狭窄さん、なかなかの曲者だけど、ほどよい距離感を持ちつつ付き合っていければ、いいヤツなのかもしれない。(文責・山下耕平)

くさ研はじめます。

めんどくささからの当事者井戸端研究:くさ研

この会は、日ごろ感じる、
めんどくさかったこと、めんどくさいこと、めんどくさそうなことなど、
生きづらさまではいかないけれど、たしかに存在する「めんどくささ」という感情を、お茶やお菓子を片手に、井戸端会議的におしゃべりする会です。

◎2カ月に1回(偶数月)を予定。参加費500円。

■くさごと
めんどくさかったこと、めんどくさいこと、めんどくさそうなこと、
これら3つの過去形、現在形、未来形のめんどくささを、
この会では、まとめて「くさごと」と表現します。

■めんどくサイコロ(くさコロ)
くさコロを振って、出た面にまつわるくさごとを話してもいいし、
すでにくさごとがある場合は、そのくさごとに合った面を表に向けて
お話しください。話が終わったら、次の人に「くさコロ」をまわしてください。

■めんどく三角
みなさまのくさごとは、めんどくサイコロの元に平等です。
どんなに些細でも、どんなに重たくても、気兼ねなくお話ください。
■くさ汁
この会の最後に、みなさまの「くさごと」が書かれた紙を水に溶いて「くさ汁」を作り、側溝へ流して大地に還元します。

■くさ研で大切にしていること
抱えるくさごとは人それぞれです。
さらにくさごとを増やさないためにも、ほかの人のくさごとは尊重しましょう。

また、この「くさ研」は、なるにわラジオとコラボしており、ラジオの「くさ研」コーナーへ寄せられたお便りを、なるにわでの「くさ研」で紹介し、そのときの反応や、みなさまのくさごとなどを、許可を得た上で、またラジオで紹介します。
・呼びかけ人
 谷口玲央奈
 野田彩花 

なるにわラジオ第13回 1周年記念だけど通常放送

なるにわラジオ

「なるにわラジオ」は、仕事もしんどい、ニートするのも、ひきこもるのもしんどい、上から目線で支援されるのもイヤやし、なんか知らんけど生きてるのしんどいわって、日々、悶々としているみなさんと、いっしょにぐだぐだの時間を過ごすラジオ番組です。

 第13回放送(2016.04.01 / 00:00a.m. OA)



パーソナリティ:谷口、山下
オープニング曲:Groove
ジングル作成:加藤直人
ジングル(声):のだ あやか


▼今回の放送は

○新コーナー告知 くさ研
○脳内リクエスト:"Dekho ab to kisko nahin hai khabar."
        インド映画「JANWAR」の劇中歌
※youtubeのリンクは下記画像をクリック。
 
ほか
  
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『もじにわ』第2号出来!

なるにわが編集・発行する不定期刊行の冊子『もじにわ』、第2号をようやく刊行できました!

◎第2号の内容は……

・特集インタビュー:野崎泰伸さん(立命館大学非常勤講師)
・なるにわについて
・くさ研はじめます。
・なるにわラジオ
・もじにわ短歌欄 ほか


◎まえがき


もじっこのみなさま、おひさしぶりです。

ぼちぼち元気でお過ごしでしょうか。

いやいや、そんないきなり親戚のような距離感で声かけられても、と思われた方、おっしゃるとおりです。


このもじにわは、「なにものか」でなくともよい場所、「なるにわ」からひろがる、なんとなく文字が好き、文字に触れているとほっとするというもじっこたちが集まる、文字のお庭です(もじっこという言葉には、文字を愛することをひかえめに、もじもじと表明する姿を想像してみてください。そのうしろ姿、あなたにどこか似ていませんか?)。


表紙をよーくご覧ください。「迷子な私たちの文字の庭」って、さりげなくキャッチコピーも創刊号から引き継いでおります。

目的地をとくに定めず、迷子のままお散歩気分でスタートした創刊号、思っていたよりずっと多くの方に手に取っていただくことができたと感じています。それというのも、全国各地のイベントに積極的に出かけていく、さえきたいちさんが、もじにわを一緒に連れて歩いてくださったおかげです。さえきさん経由で、このもじにわを知ってくださった方もたくさんいることと思います。おかげさまで、増刷を重ねることができ、製本作業(自分たちでやっています)では思わず「気をつけて旅をするんだよ」なんて、気持ちがこもりました。


そして発行の運びとなったこの第2号は、みなさまにとって、なんらかの「問いかけ」であってくれればいいな、と思っています。

インタビューも、短歌も、しずかにこの庭に息づいています。

たとえるなら、お庭に萌ゆる緑でしょうか。

わたしたち人間とはちがうたたずまいで、呼吸をし、そこに生きている。

(言葉とは言の葉、と書きますし)

そのひとひら、一葉を、すくいあげるように文字へと変換する作業のうちには、それぞれの葛藤があり、迷いがある。このもじにわをつくる過程で、わたし自身、問いかけられる瞬間が何度もありました。それは、「自分は一体なにものなのか?」「生きるとはどういうことなのか?」「言葉とはなにか?」といった、絶対的な答えのない問いかけでした。


しかしそれは、あくまでわたしにとっては、の話です。

みなさまがなにを問いかけられるのか、またそうではないのかは、みなさま自身で見つけてきてください。わたしは今回のもじにわが、みなさまのこころを、とんとん、とノックするなにかであればよいなと、願っているしだいです。(野田彩花)

↓PDFデータは無償配布↓
 

→印刷した冊子のご注文はこちらから。


書評:『キリンの子』鳥居歌集

 鳥居さんの歌集『キリンの子』を読みました。何首か短歌を引きながら、感想を書きたいと思います。(森下裕隆)

 *****

 一読して静謐(せいひつ。静かで落ち着いていること)な歌集だと感じました。もちろん、壮絶な体験について詠んだ歌も数多く収録されていますが、それも痛みや苦しみを前面に押し出すようなものではなく、感情は適度に抑制されています。

「精神科だってさ」過ぎる少年は大人の声になりかけていて
理由なく殴られている理由なくトイレの床は硬く冷たい

 一首目。精神科通院への偏見に対する怒りがないはずはありません。ですが下句(五七五七七のうち、七七の部分)では、心の病とは無縁に成長しているであろう少年へのある種のまばゆさも感じさせて、淡い印象の歌になっています。
 二首目。殴られることとトイレの床の硬さ冷たさ。本来同列に語られることのないふたつの「理由のなさ」を並べることで、主体(しゅたい。短歌の中の主人公)の逃げ場のなさ、やり切れなさを表しています。

慰めに「勉強など」と人は言う その勉強がしたかったのです


 おそらく初期の作品。率直な意志の表現が胸をうちます。高らかにうたいあげるのではなく、うつむき加減で口の中だけで絶叫しているような、力のある歌です。
 また、この歌集には著者の幼少期を詠んだ歌も多く収録されています。いなくなってしまった母、祖父母、なくなってしまった家……。これらの歌は哀しみとも憧憬ともつかないような感情に彩られています。

祖母のこと語らぬ母が一人ずつ雛人形を飾る昼すぎ
もう誰も知らない母の少女期をみどりの蚊帳で包めり昭和
まだみんな家族のままで砂浜に座って見つめる花火大会


 とくに、「母」に対する強い想いを感じる歌を二首引いてみます。


目を伏せて空へのびゆくキリンの子 月の光はかあさんのいろ
枯れた葉を踏まずに歩く ありし日は病に伏せる母を疎みし


 愛おしくても疎ましくても母を想うこころ。月の光や、枯れ葉を踏まずに歩くという行為は、母のたましいへの慰めのようにも見えます。


母は今 雪のひとひら地に落ちて人に踏まれるまでを見ており

 *****

 また、鳥居さんは連作として短歌を発表することに意識的な歌人だと感じました。連作とは、内容的な繋がりを持った複数の短歌のまとまりのことです。
 『キリンの子』にもたくさんの連作が収められていますが、その中でもとくに印象的だったのが「野菜の呼吸」という15首の連作です。
 この連作には、自身の壮絶な体験や苦悩を詠んだ歌はほとんどなく、八百屋での労働の風景が淡々と描写されています。


早朝の八百屋は群青色をして植物だけが呼吸している
南瓜を半分に切り並べれば棚一面に金が輝く

 二首目は、この歌集の中でも一二を争うような秀歌だと思います。八百屋で働いていれば見慣れた光景であるはずなのに、一瞬の奇跡のように金色に輝く南瓜の断面。心理的な描写を用いずにその一瞬の感動を巧みに表現しています。

大根は切断されて売られおり上78円、下68円

 奇妙にも思える数字のディティール(細部)への注視が印象的です。


ふよふよのみかんは見切り品にする手で触ってもふよふよわからず
陳列台の青い光に照らされるきのこは山に帰りたがって

 無心に働いているようでも、主体の心が、商品である野菜や果物に乗り移っているかのようです。一首目の、ふよふよ、は柔らかなオノマトペ(擬態語)ですが、どこか哀しみも感じさせるような響きです。


みわけかたおしえてほしい 詐欺にあい知的障害持つ人は訊く

 八百屋の客なのか、いっしょに働いている人なのか、知的障害を持つ人が登場します。「みわけかた」とは、いい人とわるい人の見分け方、ということでしょう。
 主体もまた、「みわけかた」がわからない人なのかもしれません。手で触ってもみかんのふよふよがわからないように。


八百屋なら生きていていい場所がある緑豆もやし積み上げながら

 *****

 『キリンの子』の後半には、鳥居さんの近作が収められています。その中から、とくに良いと思った歌を三首引きます。


屋上へつづく扉をあけるとき校舎へながれこむ空のあお

 目も眩むような明るい青空を思い浮かべます。扉をあけることで、世界が一気に拡がっていくような、ダイナミックなイメージの歌です。


ほんとうの名前を持つゆえこの猫はどんな名で呼ばれても振り向く

 「どんな名で呼ばれても振り向く」のは、「猫」が生きるための強かな戦略なのでしょう。「ほんとうの名前を持つゆえ」は逆説的な物言いにも思えますが、ほんとうの名前(=ほんとうの心?)を誰にも告げずに、ただ生き延びるために生きてきた野良猫の悲哀も感じさせます。

秋風のうすく溜まれる木の皿に亡母(はは)の分まで梨を並べつ

 鳥居さんは絵画を描かれていた時期もあったそうですが、この歌には静物画のような趣があります。木の皿の柔らかな丸いフォルムと、切って並べられた梨の瑞々しさが視覚的にイメージできます。「秋風のうすく溜まれる」という修辞(レトリック)も巧みです。

 *****

 セーラー服や過酷な生い立ちばかりが注目される鳥居さんですが、歌人としては、かなり落ち着いた、クラシックな歌を詠まれていると思います。これまで短歌にあまりなじみのなかったひとも、『キリンの子』を書店で見かけられたら手にとってめくってみてください。きっと奥深い短歌の世界が拡がっているはずです。

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なるにわ
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非公開
自己紹介:
「なにものか」でなくともよい場所、なるにわ(NPO法人フォロが開いてます)。毎週土曜日の午後にサロンを開いているほか、づら研(生きづらさからの当事者研究会/月に1回)、終末ティータイム、冊子『もじにわ』刊行、なるにわラジオ配信などの活動をしています。ブログは、おもにコーディネーターの山下耕平が書いています。

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