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なるにわ ぶろぐ

「なにものか」でなくともよい場所、なるにわのブログです。
なるにわの活動、づら研などについて
おもに、コーディネーターの山下耕平が書いてます。

© NPO法人フォロ

   

なるにわラジオ第10回放送~年越しスペシャル「ゆくづら・くるづら」~

なるにわラジオ

「なるにわラジオ」は、仕事もしんどい、ニートするのも、ひきこもるのもしんどい、上から目線で支援されるのもイヤやし、なんか知らんけど生きてるのしんどいわって、日々、悶々としているみなさんと、いっしょにぐだぐだの時間を過ごすラジオ番組です。

今回は年越しスペシャル。今年の生きづらさを成仏させ、あらたな生きづらさを迎える「ゆくづら・くるづら」をお送りしま~す。
 第10回放送(2015.12.31 / 23:50p.m. OA)



パーソナリティ:谷口、山下
オープニング曲:Groove
ジングル作成:加藤直人
ジングル(声):のだ あやか


▼今回の放送は

○今年の言いづら研

○明日からがんばる外国語講座

○今月のオシオシ!:石井志昂さん(不登校新聞編集長)の語るオシオシとは!?

 

○脳内リクエスト:聖飢魔Ⅱ「G.G.G(ゲゲゲの鬼太郎のテーマ)」


ほか

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今年の一字

今日は年内最後のサロンだったので、今年の一字を持ち寄りました。
あがった字は、下記。

:いろんな人と交流した。
:わりと体調が安定していた。
:黙ることの意味を生まれて初めて考えた。
:戦争法案、テロ、野坂昭如の他界など。
:ひきこもっていた去年までと比べると忙しかった。
:あれがしたい、これがしたいと欲はあるが、まだ何もできてない。
:関係が切れてしまうことがいくつかあって、切なかった。
:疲労、心労いろいろあって、労って(いたわって)ほしい。
:最近、水がおいしいと感じる。上善如水。
:よく生きているなと思う。
:……
:……


くわしくは書けませんが、まあ、それぞれ、いろいろなことがあった1年だったようです。来年もいろいろあることでしょう。ということで、よいお年を。

広域通信制高校問題

ウィッツ青山学園の就学支援金不正受給が問題になっている。NHKの報道によると、文部科学省は4年前の実地調査で、同校に、そのほかにも法令違反の可能性があることを指摘していたという。また、2014年1月に文科省が発表した調査でも、広域通信制高校には、さまざまな問題が起きていることが指摘されている。今回の事件を受け、文科省は緊急点検を行い、年度内にも報告を出すという(時事通信12月9日)。

そもそも、広域通信制高校は、どういう状況にあるのだろうか。

上記の文科省報告によると、県立高が1校、私立の学校法人が65校、株式会社立が21校。問題となったウィッツ青山学園は株式会社立だ。株式会社立の学校は、2004年からの構造改革特区で可能となったものだが、現在はそのすべてが通信制高校(その大半が広域通信制)となっている。

通信制高校全体をみると、公立校の生徒数は減少しているが、私立の生徒数は増えており、2006年を境に私立が公立を上回っている(学校基本調査)。また、私立通信制高校は8割以上が2000年以降に設立されている(126校)。最大手のクラーク記念国際高校は生徒数が1万1000人を超え、私立上位10校の生徒数が5万2243人、全体の45.9%を占める。生徒数2位の鹿島学園は2009年~2014年の5年間で生徒数を23倍に伸ばしている。(以上は、学びリンク『月刊学びREVIEW』2015年9月号より)

そして、その広域通信制を成り立たせているのが、技能連携校や学習センター、サポート校、サテライト施設などである。このうちサポート校やサテライト施設は教育実態や法的な位置づけが問題となっている。サポート校には学習塾が経営しているところが多いが、この10年ほどで、もともとフリースクールとして活動してきたところがサテライト施設を引き受けるようになっている例も目立つ。

問題は、就学支援金不正受給にとどまらないだろう。規制緩和が学校教育への営利目的の市場参入を招き、この10年で何が起きてきたのか、きちんと検証をする必要がある。そしてまた、フリースクール関係者の自己検証も求められるだろう。それはまた、現在、懸案となっている「多様な教育機会確保法案」にもつながる話だ。(山下耕平)

追記(12/11):関連資料「広域通信制課程に対する所轄庁の関与について(PDF)」

ヘルパーの仕事について

今日のサロンでは、ヘルパーの仕事をしている、なるにわ参加者二人に、話をうかがった。
二人とも、登録ヘルパーとして働いている。資格で言えば介護職員初任者研修(旧ヘルパー2級)で、おもに利用者の家に派遣されて、在宅介護をしている。仕事内容は、食事、洗濯、買い物、排泄介助や寝返り介助、ベッド移乗、吸引介助、胃ろう、外出介助など。

利用者は、障害名で言えば、知的障害、自閉症、ALS、統合失調症など。視覚障害や聴覚障害の利用者はあまりいないとのこと。

仕事をしていて、つらいことは何か聴いてみたところ、まず、「板挟みになること」との話があった。ヘルパーは、ややもすると、利用者、事業所、家族の三つどもえの板挟みになってしまう。とくに利用者の側に立とうとすると、板挟みになる。たとえば歯磨きひとつでも、利用者本人はさほど必要と感じてなくて、たまにサボることがあると、事業所から怒られてしまったりする。

また、利用者とのコミュニケーションが難しいときはつらい、という話があった。たとえば、ALSの利用者さんの場合、文字盤やPCを通じて、一文字ずつのコミュニケーションになる。何より利用者本人がもどかしいことと思うが、ヘルパーのほうも大変にちがいないと感じた。

逆に、うれしかったときのことを聴くと、感謝してもらえたとき、家族との関係がうまくいっているとき、おつかされさまの一言があったとき、つながっている感じが持てているとき、という話があった。

つらいことも、うれしいことも、作業内容そのものではなく、コミュニケーションにあった。まあ、これはどの仕事にも言えることかもしれない。また、ヘルパーの仕事は言葉ではなく身体を通じてのコミュニケーションでもあるので、そのあたりの呼吸がつながっていることが、大事なのだろうと感じた。「言葉を発語しない人でも、こちらの言っていることは伝わる」という話もあった。

言語以前のところでの関係性が、「支援」の質を決めるのかもしれない。そういう意味では、板挟みになることがあっても利用者の側に立とうとしながら仕事をしている、お二人の姿勢には、頭が下がる思いがした。

そして、それはまた、あらゆる「支援」の現場にも通じる話だと思った。(山下耕平)

なるにわラジオ第9回放送

なるにわラジオ

「なるにわラジオ」は、仕事もしんどい、ニートするのも、ひきこもるのもしんどい、上から目線で支援されるのもイヤやし、なんか知らんけど生きてるのしんどいわって、日々、悶々としているみなさんと、いっしょにぐだぐだの時間を過ごすラジオ番組です。
 第9回放送(2015.12.01 / 01:00a.m. OA)



パーソナリティ:谷口、山下
オープニング曲:Groove
ジングル作成:加藤直人
ジングル(声):のだ あやか


▼今回の放送は

○お便りスペシャル:問々タイム:オタクのまま齢をとることについて

ほか
※今回から音質が良くなっています!
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終末、健康、端っこ、日陰……

昨日は終末ティータイムでした。
お菓子を持ち寄って、お茶をしながら、この間の終末的なあれこれを話して、最後は溶ける紙に書いて水に流して終わるという会です。

昨日は、なぜか、これまで経験した痛かったことの話から、低気圧がしんどいだの、膝が悪いだの、健康話(不健康話?)に花咲くお年寄りの集まりのようになってました(笑)。

昨日は、このブログやTwitterで、最近は某法案の話ばかりだとおしかりもあったので、なるにわの活動報告でした。

ついでですが、『Fonte』(不登校新聞社)のコラムに、下記の文章を書きました。ここに出てくる「若者」は、なるにわラジオ・パーソナリティの某君です。ご紹介まで(編集部の許可を得て転載)。

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テレビでタモリが「何でも端っこがいいよね。カステラでも端っこがうまい」と言っていた。そういえばタモリは、「お昼の顔」を降りてからのほうが、らしさを取り戻しているように思う。タモリはもともと深夜向きだ。そして深夜放送は、ゴールデンタイムに進出すると、とたんに、その良さがなくなってしまう。

ある若者は「日陰が好きだ。日陰は日に当ててはいけない。フィルムが感光すると消えてしまうように、一度照らされてしまった日陰の土壌は元には戻らない」と話していた。菌類も、日陰でじめじめしているところでこそイキイキと活動する。いまの社会が何だか生きづらいのは、「日陰」がどんどん狭まってしまっているからだろう。でも、日陰はなくならない。日が当たったら、日陰に逃げよう。(大阪通信局・山下耕平)

多様な教育機会確保法案:土台から考え直すべき

朝日(11/13)、読売(11/15)、毎日(11/16)各紙が報じたところによると、「多様な教育機会確保法案」は、自民党の慎重派の意見を汲んで、来年の通常国会に提出する見込みになったようだ。

あちこちに聞いてみたが、自民党の案を読むことができていないので、報道記事に拠るしかないのだが、概要は次のようなことだ。
不登校の子どもについて、保護者が市町村の教育委員会に対し、「一定期間、学校に在籍したまま学校に出席させないことができる」よう申請。教委が認めた場合、原則では籍を置いた小中学校での卒業をめざしつつ、フリースクールや、学校復帰のために教育委員会が設置する教育支援センター、家庭学習など学校外での教育も認める。(朝日新聞11/13)

名前も「義務教育の段階に相当する普通教育の機会の確保に関する法律案」と代わり、「多様な」は外れた。

合成の誤謬というか、誰も望まない法案になっているというほかないだろう。おかしな土台に建った建物を、土台からではなく上部で修正しようとして、修正するほどおかしくなってる感じがする。土台から考え直す必要があるだろう。

そもそもの土台はと、さかのぼって考えると、そのひとつは、2008年5月に亀田徹さん(現・文部科学省フリースクール担当官)がPHP総合研究所で出した論文『多様な選択肢を認める「教育義務制度」への転換-就学義務の見直しに関する具体的提案-』にあると言える。ここから、現法案まで、ずいぶん紆余曲折があるが、この土台そのものはどうだったのだろう?

この論文については、拙著『迷子の時代を生きぬくために』(2009北大路書房)で、論評している。いま読み返しても、そのまま妥当だと思うので、以下に引用しておく。そもそもから考え直したい方は、ご参考まで。(山下耕平)

……………………………………………………………………………………………………………

●就学義務から教育義務?

亀田さんは、不登校が問題視されるのは、就学義務のみが親に課せられており、学校外の教育が制度的に認められていないからだとし、就学義務から、場所を問わずに子どもに一定水準の教育を受けさせる「教育義務」を課すことを提言した。

具体的には、保護者の申請を受け、教育委員会が学校外で学ぶことを許可する。そして、教育委員会の指導主事が学期に1回、保護者や子どもと面接し、子どもの学習や生活状況をチェックし、アドバイスをするという。そして、中学校卒業資格は、現にある「中学校卒業程度認定試験」を活用するというのだ。これにより、不登校は「問題」ではなく「選択肢」となり、家庭の精神的負担の軽減にもつながる、と主張している。

この論文はフリースクール関係者のあいだでは話題となり、亀田さんはいくつかのフリースクール主催のシンポジウムに招かれるなど、その主張は好感的に迎え入れられた感がある。しかし、私はこれも詭弁ではないかと考えている。

まず、教育義務というなら、それは親のみに課せられるものではなく、義務教育を整備する国や自治体にも課せられるべきものだ。学校外での学びを制度的に認めようと主張しながら、亀田さんが必要な財政措置として試算しているのは、教育委員会の面接費用47億円のみだ(650人の指導主事が学期に1回面接するとして)。つまり、子どもにかかる教育費用は全額保護者が負担することを前提としているのだ。

この点について、亀田さんは『Fonte』の取材に対し、「現実にある事態について実現可能性のある提言をした」、フリースクールにかかる費用を助成することなどは「現時点では難しい」との見方を示している(『Fonte』254号/2008年11月15日)。つまり、不登校を制度的に認めるといっても、それは保護者にすべてを任せ、行政はそれをチェックし、アドバイスするだけの費用しか出さないと言っているのだ。また、これまでは自主的な場として成り立ってきたフリースクールに対し、定期的なチェックをするということにもなる。これでは、費用が助成されるわけでもないのに、管理だけが強まることになってしまう。詭弁と言わざるを得ない。

子どもにとっても、いいことはないように思える。なぜなら、現状でも、学校に行かなくなったところで、進級・卒業できないことはまずない。しかし、亀田さんが言う不登校を制度的に認めるとは、学校から籍を抜き、試験を通過しないかぎりは中卒資格もとれなくなることを意味する。

不登校という現実は、子どもの「教育を受ける権利」を保障するという義務を、国家や自治体、保護者が果たせていないことを示している。亀田さんの主張は、国家や自治体がその義務から後退し、保護者への義務を増大させることを意味している。

また、『Fonte』の取材に対し、亀田さんは「フリースクールの定義を決めて線引きをし、私立学校のように法的に位置づけるのは意味がない」「規模・運営方針を含め、多様性がフリースクールの持つよさの一端でもあるわけで、そこに明確な線引きを加えることは現実的な解決策にはなり得ない」と話している(前掲紙)。これは、その通りだろう。しかし、不登校を制度的に認め、フリースクールなどにも私学助成のような財政措置をとることになれば、必然的に法的に位置づけを定め、線引きすることが必要となるだろう。そうなれば、一部のフリースクールが財政的にすくわれたとしても、大半のフリースクールはかえって存在基盤を損なわれてしまうことになるだろう。なぜなら、大半のフリースクールは、とても小規模に活動しており、教育機関として法的な位置づけを与えることなど、それこそ「現実的ではない」ように思えるからだ。現にあるフリースクールの大半は、もっと草の根的というか、教育制度にはそぐわないようなものだ。

ただ、亀田さんの主張には、肯ける部分もある。それは、学校に行かないことが子どもにとっても親にとっても罪悪感や自己否定感をともなうものとしてあり、それが必要以上に子どもを苦しめてきた、ということだ。罪悪感や自己否定感を持たされたまま、保健室登校や別室登校をさせられたり、いつまでも、あってはならない状態として不登校が位置づけられていることは、深く子どもや親を苦しめているにちがいない。それを解消するためには、現実的にできる方法として、選択肢として位置づけてしまえばいいという主張は、わからなくもない。しかし、それはそう簡単ではないだろうと私は思う。実態を抜きに理念としてだけ選択肢とすることは詭弁にほかならないし、実態をともなわせようとすると現実的ではなくなる。不登校が数十年にわたって問題であり続けたのは、それが巨大な社会構造の問題であるからだ。先述したように、不登校はそれだけにやっかいで、混沌とした問題であり続けてきたのだろう。この混沌を簡単に腑分けしてはいけない。むしろ、この混沌を磁場とし、巨大な社会構造を問い続けなければいけないのではないか。そんなふうに思う。
(『迷子の時代を生き抜くために』山下耕平/北大路書房2009)

づら研:怒られるのが怖い問題

今回のづら研のテーマは、「怒られるのが怖い問題」だった。
まず、みやすけさんが自分の場合を文章にしてきて話してくれて(文章はこちら)、その後、そのキイワードをホワイトボードに書き出して、参加者とともに「当事者研究」した。


●身体反応~言語化

みやすけさんが最初に話したのは、怒られたときは、その内容よりも先に、怒りのエネルギーが伝わってきて、身体が反応してしまう、ということだった(心臓ズキズキ、前頭葉ビクビク、目の前チカチカ、身体がドコドカetc...下記写真参照)。

そのため、判断力も鈍ってフリーズしてしまったりする。そして消化されない思いが、不安や澱となって沈滞するものの、しばらくすると固まってきて、言葉になってくる。その段階になって、ようやく人に話せたり相談できたりする。そうすると、吐き出すことができて浄化できるが、それで終わりということでもなく、ときどき再沸騰したり、また、あらたに怒られることがあったりする……。

ほかの参加者からも、やはり身体反応の話はいろいろあって(呼吸が浅くなる、血圧が下がる、顔がこわばる、平衡感覚がなくなるetc...下記写真参照)、まずは身体反応なんだということがよく見えてきた。それが言語化されていくと、アウトプットできるが、言語化できないと、エネルギーの塊が自家中毒を起こして、激辛食品やアルコールの摂取、自傷行為などなど、痛みの置き換えで乗りきろうとしてしまったりする。いずれにしても、言語化までは時間がかかることが見えてきた。


●怒られることの種類

さらに、話をするなかで見えてきたのは、怒られることにも2種類あって、理不尽に怒られている場合と、自分に非があると思える場合とでは、自分の反応もちがう、ということだった。理不尽だと思う場合は、反発したり逆ギレしたり、怒りに対する「盾」が働くが、自分に非がある場合は、その「盾」を立てられないので、怒りが深く刺さってしまう。そうすると、フリーズしたり強制終了(シャットダウン)になってしまう。また、理不尽と思っても、とにかくやり過ごすために謝ってしまうということも、女性参加者から話されていた(このあたりはジェンダー要素が深く絡んでいそうだ)。


●なぜ怖いのか?

そして、本題の「怖い問題」だが、なぜ怖いのかを考えたとき、大まかに言って、3種類ほどあった(下記写真参照)。

・身体的な怖さ(殴られる、声が大きい、相手のエネルギーに呑み込まれるetc...)
・関係上の怖さ(決裂してしまう、信頼関係が壊れる、見捨てられるetc...)
・自分への否定(人格否定、価値観の否定、罰せられるetc...)

また、怒りに向き合おうとするからこそ怖いのではないかという意見や、自分を否定して相手に合わせるのもイヤだし、決裂するのも怖いという二律背反がある、などの意見もあった。


●怒りに対処する工夫

その後、怒りに対処する工夫を出し合った(下記写真参照)。

これも、大まかに3段階(初期・中期・後期)あるのと、向き(内/外)があることが見えてきた。

初期
には、身体的な工夫が多く(食べ物、アルコール、風呂、涙を流す、カラオケetc...)、方向は内向き、そしてエネルギーの置き換えをしようとしているのではないかということが見えてきた(痛みの置き換えや発散)。

中期
になると、言語化・共有化する工夫が出てきて(相談する、ひとりにならないetc...)、方向は外向き、そしてエネルギーの変換が起きているのではないかという話になった。

後期
では、負のエネルギーが浄化されたり成仏して、楽になるが、そうなっても甘えや嗜癖が残ってしまうこともあって、それは依存の問題かもね、という話になった。

また、負のエネルギーが変換されないまま、外に向かって発散してしまう場合もあって、それは八つ当たりだったり、ヘイトスピーチみたいな「他者の悪魔化」だったりするのではないか、という話も出た。

*  *  *

こうやって書き出して眺めてみると、実にいろいろなことが見えてきて、おもしろかった。しかし、怒りへの対処の工夫を見いだしても、そもそもが不条理に怒られている場合もあり、自分が工夫して対処しておしまい、では済まない場合も多い。そこで、次回のテーマは「怒り方の研究(誤爆・自爆の研究)」となった。相手に対してちゃんと怒れないために、誤爆や自爆が起きてしまう。それを「研究」してみようということで。12月7日(月)13時~大阪ボランティア協会にて。よかったら、ぜひお越しを。(山下耕平)

11.2 STOP! 多様な教育機会確保法案フォーラム

11月2日、東京・代々木で開かれた「STOP! 多様な教育機会確保法案」フォーラムに、パネリストのひとりとして参加してきた。弁護士の石井小夜子さんの解説に始まり、不登校経験者や親の立場からの発言もあり、充実していたが、とりわけ、金井利之さん(行政学)のお話が明解でおもしろかった。IWJのUSTREAM配信で録画が閲覧できるようだが、残念ながら金井さんの話が途中で切れてしまっている(後日、Youtubeでもアップされるのではないかと思う)。

くわしくは動画を観ていただくとして、自分の発言については、下記に要旨をアップしておきたい。(山下耕平)

……………………………………………………………………………………………………

今日は古くから不登校に関わってきた人たちも多く来ているが、その方たちは、この法案を通じて、自分たちが関わってきた、この運動はいったい何だったのかという思いがあるのではないか。私自身、そういう思いが深くある。
この法案は、上から降ってきたものではなく、フリースクール関係者が求めてきたものでもある。そこに大きな問題を感じる。なぜ、こういうものが出てきたのか、フリースクールが安倍政権のような新自由主義と握手してしまったのはなぜなのか? 仮に法案がどうなろうと、大きな問題が横たわっていると思う。


・不登校とフリースクールはいっしょではない

もともと、不登校とフリースクールは、重なる部分はあるが、いっしょではない。文科省の調査では、フリースクールに通う小中学生は4200人、不登校児童生徒の3.5%だった。フリースクールは、不登校の子どもの声の全体を代弁しているわけではない。不登校に関わる活動にも、いろんなニュアンスがある。オルタナティブスクール、フリースクール、フリースペース、居場所、親の会、ホームエデュケーションなど、さまざまで、それらがないまぜだった面もある。それが豊かさでもあったのだと思うが、この10年ほど、何かおかしくなってきたのではないか。

・法案は、推進側が従来求めてきたものでもない

この法案は、推進者が求めてきたものとも異なっている。もともとは、教育基本法のもとに、学校教育法と並ぶものとして「多様な学び保障法」を求めていたはずだ。現法案は、それとはまったく異なっている。不登校のなかでも学校復帰の見込みのない約1万人というのが、立法事実になっている。フリースクールなどの理念を学校と対等に認めているわけではない。不登校に立脚するのであれば、不登校の現実に即して考えるべきだろう。


・ベクトルが逆向き

法案には、親の会を中心に、関係者から多くの批判があがっている。本来、そういう懸念の声は、推進側が議員に対して代弁すべきものだ。推進する側こそ、懸念の声を共有して議員に届けるべき。ところが実際は、議員の声を代弁して、懸念を示す人を説得している。ベクトルが逆向きで、おかしな構図になっている。こんなことでは仮に法案が通っても、先行きが知れているというほかない。

推進側は「個別学習計画は柔軟に運用できる」と言っているが、根拠にしているのは、馳議員の見解のみ。しかも、馳議員は、過去の体罰が問題になった『正論』の対談で、逆向きの発言もしている(→参照)。


・新自由主義との握手

安倍政権は、教育予算は削減して、「選択と集中」でエリートに重点配分する方向にある。不登校政策もその一環で、「未来のエジソンやアインシュタインを発掘」するためのフリースクール支援になっている。仮に、個別学習計画を履行した人に、はした金が出たとしても、大枠としては、そういう思想に貫かれている。一部の人だけを抜き出せればいいというもので、不登校の子どもたちが自分の存在をかけて問うてきたことに応えるものでは、けっしてないだろう。

推進側は「学校の外を認めてほしい」と言っているが、その「学校」とは何か。能力主義や成果主義が広がるなかで、学校と塾との連携も拡大している。その一環としてフリースクールなどが位置づくのであれば、フリーでもオルタナティブでもない。80年代の枠組みで、学校に対するフリースクールを考えるだけではなく、市場や塾産業に対して、どれほど自律的であるのかが問われている。

以前は、学校は雇用につながっていたが、それが崩れているなかで、学校教育はブラック化している。安倍政権とフリースクールは「個性」「多様性」「自由」という言葉で握手してしまっているが、その言葉で同じものを見ているのかといえば、けっしてそうではないだろう。そこをよくよく確認しておかないといけない。法案がどうなろうと、その構造をよく考えないといけない。


・原点に立ち返って

不登校の現実に立脚して考える場合、不登校その後の問題と、貧困による長期欠席の問題はきちんと考えないといけない。そのなかで、私たちが「居場所」と言ってきたことの意味を、原点に立ち返って考える必要がある。この能力主義社会がパッと変わることはなく、むしろ深まる一方のなかで、子どもたちは、この社会や自分と向き合ったり葛藤することが必要だと思う。居場所を保ちつつ、葛藤したり、揺れ動く時間や場があること。大人はそこに向き合っていくことが必要ではないか。

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